はじめに

この本は、崖の上の高原の王国で話されている高原語の文法を、音と文字から文の組み立て、言葉の層まで、ひととおり記述したものです。この「はじめに」では、まず高原語がどこで誰に話されているか、どのような層と歴史をもつか、隣の干潟語とどういう関係にあるかを概観します。そのあとで、この本の表記と例文の読み方を説明します。

0.1 高原語とその名前

高原語は、干潟の北にそびえる崖「縁」の上に広がる高原の王国の言葉です。王国の人々は、自分たちの国をふだん análor「上手の国」と呼び、正式には anaurím「上手の高み」、詩では amfóndar「上手の源」と呼びます。

言葉の名前も、国の名前と同じく三つの段があります。

名 字義 使う場面
amvirá 上手の言葉 ふだんの呼び名。都でも森でも崖道でも通じる中立の総称で、宮廷語と崖道の言葉の違いを問わず、高原で話される言葉全体を指す
þailvirá 澄んだ言葉 都と宮廷での誇りをこめた呼び名。狭くは都の改まった言葉だけを指し、崖道の言葉・森の言葉・取引言葉を含めない。改まった場や書き言葉では、高原語全体の雅称にもなる
aurselvá 昇る息 詩・祈りの詞・系譜の唱えの中での古風な呼び名。日常の会話ではまず使わない

amvirá は、崖の下の干潟語を「泥の言葉」「下の国の言葉」と呼ぶのと対になる名前です。縁の地方では転じて「きちんとした言葉づかい」の意味にもなり、くだけすぎた話し方をたしなめるときに「amvirá で言え」と言います。都の人は、運び人のくだけた話し方を「澄みの言葉が濁った」と評します。

この本で「高原語」と言うときは、amvirá、つまり高原で話される言葉の全体を指します。記述の基準には、王国の標準語である都の言葉(þailvirá)を使い、ほかの層との違いはそのつど注記します。

0.2 話される土地

0.2.1 高さの帯

高原は、南の端の崖「縁」から北へ向かって、段を重ねるように少しずつ高くなっていきます。高原の人々は、土地を東西南北よりもまず高さの帯でとらえます。南から北へ、次の四つの帯が並びます。

帯 ようす 言葉にかかわる場所
縁の肩 崖のすぐ上の、石だらけの台地。住む人は少ない 今の崖道の町 dulándo「下る所」、旧道の町 funelór
森の帯 高原の大部分を占める深い森。峡谷が刻まれる 森の氏族の谷々(ulvenkeréla「狼の谷」など)
湖盆 高原の中ほどの、東西に長い窪地。高原湖が鎖のように並ぶ 大湖の北岸の王都(湖都)、湖畔の市の町 meulvéinor
北の高み 岩の峰が続く山地。王家と古い氏族の聖地・納骨所がある 古い系譜碑

北へ行くほど土地が高くなるので、高原の言葉では「北」と「上」、「南」と「下」がほとんど同じ意味になります。方角は上手(北)・下手(南)・日の出側(東)・日の入り側(西)の四つで言い、これが前置詞 an・du・or・vel の体系にそのまま表れています(→ 第4章、第10章)。

0.2.2 崖と縁の市

崖の高さは千メートル前後あり、崖の下には干潟が広がります。高原と干潟を結ぶのは崖道だけで、行き来は乾風期に崖の麓で開かれる縁の市にほぼかぎられます。高原の重い硬木は崖の上の降ろし場から綱で下ろされ、干潟の塩と紫染めの糸は運び人が担いで上げます。縁の市と崖道は、高原語と干潟語が触れ合うほとんど唯一の場所です。

0.3 話し手

高原語は、王国に住むすべての人の母語です。都の宮廷人と役人、湖盆の町と段々畑の村の人々、森の氏族、縁の肩の番人と運び人が、それぞれの層の高原語を話します。

高原の社会は身分を「段」で数え、話し手と聞き手の段の差が、そのまま言葉づかいに表れます(→ 第8章)。身分の高い人ほど、整った韻律と改まった語彙で話し、日常でも詩句を引きます。

高原語を母語としない話し手もいます。干潟から崖を上って商いをする縁商人と、干潟の潮読みの一部は高原語を話し、縁商人は高原の文字で帳簿をつけます。反対に、高原の側で干潟語を話せるのは、崖道の商人と運び人くらいです。

0.4 言葉の歴史のあらまし

時代 できごと
古い時代 森の氏族と湖畔の都市の言葉。この時代の言葉を古高原語と呼び、古い歌・巫の詞・碑文に残る。数は早くから十進法で数えた
約千五百年前 鋳物師の刻印と森の氏族のしるしから、文字が生まれる
約千二百年前 冷害と飢饉で、崖を下りて干潟へ移り住む人々が出る(干潟の側で言う「縁の民」)。このとき金属・穀物・木材・建築の語が干潟語に入る(tambóro → taboro、gandéra → gadera)
約千年前 系譜碑と巫の詞の写しを通じて、綴りが固まる。以後、発音が変わっても綴りは直されない
約九百〜五百年前 古い脱落:強勢のある音節のすぐ後ろで、流音・鼻音一つに続く語末の母音が落ちる(*gandéra → gandér)。同じころ、ü が生まれる
約五百年前 写字生が小灯点(ü の印)と鉤(長母音の印)を書き添え始める
約二百年前 湖畔の都市から出た王家が高原を統一し、宮廷の言葉(都の言葉)が王国の標準語になる。取引を通じて slúun「千」が干潟語に入る(sëlu)
現在 今の脱落:くだけた話し方で、強勢のない語末の母音が屈折語尾でも落ちる(áura → áur)。宮廷語では起こらず、綴りにも書かない

二つの脱落は、時代も条件も違う別々の変化です。綴りは古い脱落より前の形を残しているので、書かれた形と話される形がずれます(〈gandera〉と書いて gandér と読む)。音の変化そのものは第1章、綴りとの関係は第2章で扱います。

0.5 言葉の層

高原語には、場所と身分と場面による、はっきりした層の違いがあります。主なものを挙げます。詳しくは第10章で扱います。

層 話される所・話す人 主な特徴
宮廷語・都の言葉(þailvirá) 湖都の宮廷と都の人々。王国の標準語 古い語末母音の脱落を経た今の語形を基準に、残っている語尾は強勢のない母音も含めてはっきり発音する(崖道で進む「今の脱落」は起こらない。→ 1.9.2、1.10)。双数・六つの法・敬語の補充形をそろえて使う
森の言葉 森の帯の氏族 古い脱落を免れた形が残る(gandéra, tambóro, slúuna, lími)。重性に入る語が多めである
崖道の言葉 縁の肩の町々、運び人、崖道の商人 今の脱落がよく起こる(áur, dúl, lís)。双数が衰え、名詞は双数のまま動詞と形容詞を複数で受ける。赤月の数え方と干潟語からの借用語が入っている。干潟語のような高低の抑揚がわずかに残り、都の人はこれを「下りた訛り」と呼ぶ
縁の市の取引言葉 崖の麓の市で、高原の人と干潟の人のあいだ 格の語尾も敬語もほとんど落ち、動詞は命令法の2人称単数と同じむき出しの語幹(語末に置けない子音は削る。→ 1.8.4)に ende「どうぞ」を添えて使う(ván fáron, ende「荷を量ってくれ」)。都の人の耳には「半ば沈んだ言葉」に聞こえる
古高原語 碑文と巫の詞 今の言葉より古い段階の言葉。古い脱落の前の形がまじる

このほか、旧道の町 funelór の人々は、くだけた話し方でも動詞の語尾を落とさず(áura・lísa)、町の名前も語末の母音まで読んで funelóra と言います。都の人には、この話し方が「崖道の者なのに、妙に丁寧」に聞こえます。

書き言葉(法典・碑文・年代記)と詩の言葉にも、それぞれの決まりがあります。法典と碑文は当為法を多く使い、詩は語順が自由で、強勢と音節の重さによる韻律に乗せて詠みます(→ 第6章、第10章)。

0.6 隣の言葉と借用

崖の下の干潟では、高原語とは系統の違う干潟語が話されています。二つの言葉は崖をはさんで長く接してきたので、互いに語を貸し借りしてきました。高原語には、干潟語から塩や染料の品質を表す語、潮の語彙が入っています。こうした借用語は重性の名詞になり、文字で書くときは下に泥の線を引きます。また、干潟の数え方の「千」(1728)は、借用語の sélu「泥の千」で言い表し、高原の slúun「千」(1000)と言い分けます。詳しくは第9章で扱います。

0.7 文字のあらまし

高原語は独自の文字で書きます。高原の人はこの文字を virá lísen「書かれた言葉」と呼びます。詳しくは第2章で扱います。

0.8 文法のあらまし

高原語は**動詞で文を始める(VSO)**言語で、融合型の屈折語です。名詞は数と格によって、動詞は主語の人称・数(3人称単数では主語の性も)と法によって形を変えます。一つの語尾が、いくつもの文法的な意味をまとめて表します。日本語の「が・を・に」のように一つずつ付け足すのではなく、英語の he と him のような形の変わり方です。文法の全体には、次の三つの特徴が通っています。

  1. 重い/軽い:名詞は「軽いもの」(軽性)と「重いもの」(重性)の二つの性に分かれます。性はふつう語ごとに決まっていますが、指すものがいまどういう状態にあるかで一致が切り替わることもあります(→ 3.2)。性によって名詞の曲用の型が分かれ、形容詞・分詞・指示詞と、動詞の3人称単数の語尾(軽性 -a/重性 -o)がその性に一致します。この区別は、上へ昇るものと下へ沈むものという高原の人々の世界の見方を写しています(→ 第3章、第5章)。
  2. 高さの敬語:敬意は「上げる/下げる」という高さで表します。尊敬の接頭辞 au- は「昇る」から、謙譲の接頭辞 du- は「下る」から来ています(→ 第8章)。
  3. 時制はなく、法がある:動詞は「いつのことか」を語形では表しません。そのかわり、「言い切る・推し量る・願う・命じる・定める・仮に言う」の六つの法を使い分けます(→ 第5章)。出来事が過去・現在・未来のいつに位置するか(時制)と、出来事を終わったものとして捉えるか(相)は、別のものとして扱います。高原語は前者を語形で表さず、後者は完了相で表します(léisa「書き終えた・書き終えている」)。推量法の liséla「書くだろう」も未来形ではなく推し量りの法で、分詞の「〜した・〜された」も時ではなく、終わった結果の状態を表します(→ 5.4、5.5)。

名詞は単数・双数・複数の三つの数と、主格・対格・属格・与格(古くは呼格も)の格で変化します。前置詞を使い、形容詞・属格・分詞・関係節は名詞の後ろに置きます。主語の人称と数は動詞の語尾でわかるので、主語の代名詞はふつう言いません。時間は川の流れとして、前を上手、後を下手と言い表し、比べるときも「〜より上」「〜より下」と言います。このように、高原語の文法の多くの部分には縦の軸が通っています。ただし、すべてが高さで説明できるわけではありません。由来の見えなくなった形や、高さの見方では説明のつかない性の割り当て、理念と食い違う慣用もあります(→ 3.2.2)。

0.9 この本の表記

0.9.1 転写の文字

この本では、高原語をラテン文字で転写して示します。ほとんどの字は見たとおりに読みますが、次の字に注意してください。

転写 音 説明
þ /θ/ 英語 think の th(þrén「段」、dulíþ-「下ろす」)
š /ʃ/ シャ行の子音
ñ /ɲ/ ニャ行の子音(viríña「小句」)
ü /y/ 唇を丸めた i(dǘn「丘々」)
ng・nk [ŋg]・[ŋk] n と g・k が並んだもの。ng は独立した音素ではない

0.9.2 強勢の記号

0.9.3 小文字だけで書く

固有名も含めて、すべて小文字で書きます(selméir, sélvanan, ráimar)。高原の文字には大文字と小文字の区別がなく、敬意は大文字ではなく上げ書きで表すからです。

0.9.4 そのほかの記号

記号 使い方 例
太字・code 本文中の高原語の語形 lísa「書く」
〈 〉 高原の文字での綴りを、字ごとにラテン文字に移したもの。長母音は字を重ねて、小灯点つきの字は〈u̇〉〈ȯ〉で示す 〈gandera〉=gandér、〈sluuna〉=slúun、〈du̇ni〉=dǘn
* 記録に残っていない、さかのぼって推定した古い形 *gandéra、*tambóro
- 語の中の形態素の切れ目。語根を挙げるときは語末にもつける lís-「書く」、au-「尊敬」
→ 形の変化・派生、またはこの本の参照先 dúl- → dóul-、→ 第5章

0.10 例文の読み方

0.10.1 例文の枠

例文は枠の中に示します。枠の中は、上から次の順に並びます。

  1. 高原語の文(転写)と、発音を聞くためのボタン
  2. 高原の文字で書いた形
  3. 読み(カタカナ)
  4. 逐語訳:語ごとに、上の段に形態素に区切った形を、下の段にその訳を置きます
  5. 日本語訳(「 」の中)

dúlo gandér du dálor

読み:ドゥーロ ガンデール ドゥ ダーロル

dúl-ogandérdudálor
下る-<(重いものが)>硬木<主格>下手下の国<対格>

「硬木が下の国へ下りていく。」

aldána aldár áuren an dúnoi

読み:アルダーナ アルダール アウレン アン ドゥーノイ

aldán-aaldáráur-enandún-oi
おわす-<(軽いものが)>座<主格>昇る-<〜した・〜された>上手丘-<与格>

「高き座は丘の上におわします。」

逐語訳の上の段と下の段は、語ごとに縦にそろっています。語の中のハイフン(-)は形態素の切れ目で、下の段でも同じ位置にハイフンを置きます。

0.10.2 逐語訳の読み方

léisa lisár plánan

読み:レーサ リサール プラーナン

léis-alis-árplán-an
書く<〜し終えた>-<(軽いものが)>書く-<〜する人・主格>帳簿-<対格>

「書記は帳簿を書き終えた。」

éso sáko némei un kórvoi.

読み:エーソ サーコ ネーメイ ウン コルヴォイ。

és-osákoném-eiunkórv-oi.
いる-<(重いものが)>塩<主格><私>-<与格>内に倉-<与格>

「私には倉の中に塩がある。」

ván fáron, ende

読み:ヴァーン ファーロン、エンデ

vánfáron,ende
量る<命令法><あなたが>荷<対格>どうぞ

「荷を量ってくれ、頼む。」

0.10.3 略号

< > の呼び名のもとになっている略号と、その意味の一覧は、付録C にまとめました。本文の説明でも、形態素の働きを短く示すときに略号を使います(-ACC、PTCP など)。

0.11 この本の組み立て

章 扱うこと
第1章 音韻 子音と母音、音節、強勢、異音、語末の母音の二つの脱落
第2章 文字と正書法 文字の成り立ち、字の一覧、綴りの決まり、数字、上げ書き
第3章 名詞 性、数、格、曲用の四つの型、数詞と量の名詞、人名
第4章 形容詞・代名詞・指示詞・前置詞 一致、人称代名詞、指示詞、前置詞と格、名詞句の内部
第5章 動詞 人称、六つの法、完了相、分詞、副動詞、否定、使役、不規則動詞
第6章 文の組み立て 語順、述語、存在と所有、否定と疑問、命令と依頼、比較、等位
第7章 従属節 ré の節、関係節 te、lúin の節、仮定、時の前後
第8章 敬語 尊敬と謙譲の接頭辞、補充形、聞き手との段の差による話し方
第9章 語形成と借用 派生、複合、借用語
第10章 言葉の層・文体・表現 都と崖道、縁の市の取引言葉、書き言葉、定型表現、空間と時、親族名称、詩の韻律
付録 接辞一覧、不規則形一覧、略号一覧
高原語辞典

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