第2話 ヒロが来た

目を覚ますと、天井が煤で真っ黒だった。

黒い天井の真ん中に、四角い穴が開いている。そこから細い煙が一筋、空へ抜けていく。穴の向こうの空は、薄い青だった。

僕は毛皮を何枚も重ねた寝床の中にいた。

あたたかい。

しばらくのあいだ、自分がどこにいるのかわからなかった。目覚ましが鳴る前の、布団の中の、あのぼんやりした時間だと思った。もうすぐ階段の下から、母さんが僕の名前を呼ぶ。

寝返りを打つと、毛皮から獣の匂いと、煙の匂いがした。

うちの布団は、こんな匂いはしない。

それで、全部が戻ってきた。崖も、月がふたつあったことも、綱で引き上げられたことも。僕がこの世界に来てしまったということも。

夢じゃなかったのだ。

起き上がろうとして、思わず声が出た。体じゅうが痛かった。脇の下には、綱の輪が食いこんだ跡が赤く残っていて、触るとひりひりした。左の肩は、崖の壁にぶつけたところが、熟れすぎた果物みたいな色になっている。手のひらのすり傷には、黒っぽいかさぶたが張っていた。

痛いのは、まだ大丈夫だということだ。昨日と同じことを、もう一度自分に言った。

◆

毛皮から這い出して、部屋を見回した。

広い。

それが最初の印象だった。腰の高さまで石を積んだ土台の上に、太い柱と板の壁が立っていて、天井はずっと高いところにある。柱も梁も、長いあいだの煙に燻されて、黒く艶が出ていた。部屋の中央に、石で囲った炉があった。炉の中で薪が赤く燃えている。炉の上には鉤のついた鎖が下がっていて、鍋がひとつ吊るしてあった。煙は、天井の穴へまっすぐ昇っていく。

炉の向こう側、奥の壁を背にしたところだけ、床が一段高くなっていた。厚い毛織りの敷物が敷いてある。炉のまわりの低いところに、寝床がいくつか。僕が寝ていたのは、戸口にいちばん近い、その一つだった。

炉から離れた部屋の奥は、薄暗くて、がらんとしていた。炉の熱もそこまでは届かないのか、吐く息がうっすら白くなる。壁際に、古い木の箱や、太い縄の束や、何に使うのかわからない木の枠が積み上げられていた。どれも埃をかぶっている。そのそばに、木の枠に糸を張ったものが置いてあった。張った糸の手前に、織りかけの布が、手のひらくらいの幅だけ巻き取られている。機織り機のようにも見えた。縦糸は張られたままなのに、杼は枠の上に置かれて、うっすら埃をかぶっていた。織っていた人は、しばらく前からここにいないのだ。

そんなことを考えていると、戸口のほうで物音がした。

入ってきたのはウェレラさんだった。手に木の桶を提げている。戸が開いたとたん、外の冷気がどっと流れこんで、炉の火が一瞬低くなった。ウェレラさんは僕が起きているのを見ると、何か短く言って、炉のそばへ来た。桶を下ろすと、腰に手を当ててひとつ息をついた。鍋の蓋を取ると、湯気がふわりと立った。

ウェレラさんは木の椀に鍋の中身をよそった。黄色みがかった灰色の、どろりとしたものだった。粥だ。小さな粒の穀物を、とろとろになるまで煮たものらしい。

ウェレラさんは椀と木の匙を差し出した。

「mán.粥?」

昨日、水の椀を差し出されたときは níl だった。だったら、mán は粥のことだろう。たぶん。

僕は椀を受け取った。両手で包むと、熱がまだ冷たい指先に染みてきた。匙ですくって口に運ぶ。塩気は、あるかないかわからないくらいだった。粒が口の中でほろりと崩れて、素朴で、少し土っぽい味がした。正直に言って、特別おいしいものではない。それなのに、匙が止まらなかった。気がつくと椀は空になっていた。そこで初めて、僕は自分が腹を空かせていたのだと気がついた。最後にまともなものを食べたのは、テストが終わった日の昼だった。

ウェレラさんは、空の椀を見て、黙ってもう一杯よそってくれた。鍋には、まだたっぷり残っていた。

何か言わなくては、と思った。ありがとう、と。でも、ありがとうをこの言葉で何と言うのか、僕は知らなかった。

しかたなく、日本語で言った。

「……ありがとうございます」

そして、深く頭を下げた。

ウェレラさんは少し首をかしげた。わかったのか、わからなかったのか。それから、気にするなと言うかのように、僕の頭をぽんぽんと二回叩いた。乾いた、硬い手だった。それからまた鍋のほうを向いた。

おばあちゃんの手を思い出した。喉の奥がまた詰まりそうになって、僕は急いで二杯目の粥をかきこんだ。

◆

二杯目を食べていると、視線を感じた。

炉の向こうに、女の子が座っていた。

昨日、戸口から僕を見ていた子だ。明るいところで見ると、思っていたより幼い顔をしていた。年は僕と同じか、少し下くらい。黒い髪を一本に編んで、背中に垂らしている。編み目の先を、色の褪せた赤い紐で結んであった。生成りの毛で織ったらしい、ざっくりとした上着を着ていて、袖口から出た指の先が、何かの染料で薄く青く染まっていた。

膝を抱えて、炉ごしにじっと僕を見ていた。目が合っても、そらさなかった。昨日のように隠れもしない。ただ、ものすごく興味しんしんの顔で、僕を観察していた。僕が匙を口に運ぶと、女の子の視線も匙といっしょに動いた。

僕が匙を置くと、女の子はすっと立ち上がった。炉を回って、僕の前にしゃがみこむ。

そして、炉の横に置いてあった水がめを指さした。

「póso?」

問いかけの調子だった。語尾が上がっている。

何をたずねられているのか、と考えた。彼女は水がめを指さしたまま、僕の顔をのぞきこんでいる。答えを待っている顔だった。

「……ニル水??」

これは何か、と聞いているのかと思って、答えてみた。女の子は眉を寄せて、首を振った。それから、水がめを指さしたまま、ゆっくり、はっきりと言った。

「ílmo só.」

「イルモ ソー」

まねして言ってみた。その子はぱっと顔を輝かせて、大きくうなずいた。

僕は首をかしげた。水は níl じゃなかったのか。

昨日の夜、ウェレラさんは、水の入った椀を差し出しながら níl と言った。今朝は、粥の椀を差し出しながら mán と言った。どちらも、何かを差し出すときに、一言だけ。

飲め、か。

だとしたら、mán は、食べろ。昨日の夜、僕は「飲め?」と言っておかわりをねだったことになる。ウェレラさんが笑っていたのは、それが妙なやり取りだったからだ。

通じたのは言葉ではなく、空の椀のほうだったわけだ。まあ、二杯目はもらえたのだから、よしとしよう。

続いて女の子は、炉の火を指さした。

「elþá sé.」

粥の入った鍋を指さす。

「lúsa sé.」

ウェレラさんが棚から下ろした、白い液体の入った壺を指さす。

「nímbo só.」

一つずつ口の中で繰り返した。elþá sé. lúsa sé. nímbo só.

どの言葉の後ろにも、sé か só が付いている。たぶん、「これは〜です」みたいな、そういう意味なんじゃないだろうか。

しかし、なぜ二種類あるのか。

最初に思いついたのは、「これ」と「それ」の違いだった。近いものと、少し離れたもの。しかし火も、粥も、乳の壺も、水がめも、みんな僕たちのすぐ目の前にある。どれも同じくらい近い。

確かめてみることにした。

僕は立ち上がって戸口まで行き、戸を少し開けた。女の子もついてきた。冷たい風が足もとから吹きこんでくる。僕は外を指さした。道の向こうの家の屋根に、雪が厚く積もっている。

女の子は僕の指の先を目で追って、言った。

「hílva té.」

té。sé でも só でもない、三つ目の音だった。

次に、もっと遠く、町の外れに転がっている大きな岩を指さした。

「kéumo tó.」

僕は振り返って、炉の横の水がめを指さした。

「ílmo só.」

遠くを指さすと、t になる。近くを指さすと、s になる。日本語の「これ」と「あれ」だ。距離で変わるのは、最初の音のほうだった。

でも、それでわかったのは半分だけだった。sé と só。té と tó。e と o の違いは、近くでも遠くでも残っている。

e:火、粥、遠くの屋根の雪。

o:水、乳、遠くの岩。

これらに共通するものは何だろう。黙って考えこみ始めた僕を見て、女の子が首をかしげる。

僕は、もう一つ試してみることにした。

戸口の外に、毛の長い山羊が一頭つながれていた。白くて、毛がもじゃもじゃと長く、腹のあたりの毛には小さな氷の粒がいくつもぶら下がっている。崖の上で見た野生の山羊とは違って、のんびりした顔で、地面の何かをもぐもぐと噛んでいた。

僕は山羊を指さして、女の子を見た。すぐに答えが返ってきた。

「méula sé.」

山羊は sé。生き物だから? でも火も粥も雪も、生き物じゃない。

僕が唸っていると、女の子は何か思いついたように、戸口から外へ飛び出していった。僕が戸を閉めて炉のそばへ戻ると、すぐに戻ってきた。両手に、何か白いものを持っていた。

右手には、雪をひとつかみ。

左手には、軒先からもいできた、つららが一本。

まず右手の雪を差し出した。

「hílva sé.」

それから、左手のつららを差し出した。

「glünó só.」

僕は雪とつららを交互に見比べた。

雪は、sé。

氷は、só。

どっちも凍った水だ。同じものだ。違うのは、形だけ。

……どういうこと?

女の子は僕の顔を見て、くすくす笑った。僕がよっぽど変な顔をしていたらしい。握った雪が手の熱で溶けて、指のあいだから炉の石の上にぽたぽた落ちて、じゅっと鳴った。

今度はこっちから聞いてみることにした。教わるばかりでは、覚えられない。

炉の、石を組んだ縁を指さして、女の子のまねをした。

「pósoこれは何?」

女の子の目が、ぱっと輝いた。僕が自分から聞いたのが、よほどうれしかったらしい。

「hóum só.」

hóum。炉。só のほう。

炉の中で燃えている火は sé だった。その火を囲んでいる炉は só。火と炉で、側が分かれる。ますますわからない。

調子に乗って、僕は次に、目の前の女の子を指さした。

「póso?」

女の子は一瞬ぽかんとした。それから、雪を握ったまま、体を折って笑いだした。笑いすぎて、目に涙をためていた。炉の向こうで、ウェレラさんまで肩を揺らしていた。

これは何、と、人に向かって聞いてしまったのだ。

それはそうだ。日本語でも、人を指さして「これは何」とは訊かない。僕もつられて笑ってしまった。

ふと思い立ったように、女の子は戸口に駆けていくと、雪を手から念入りに払いのけた。それが済むと、ぱたぱたと小走りで戻ってくる。濡れた手を服の裾で拭うと、自分の胸に手を当てて言った。

「þélim selvíñan.」

昨日、ウェレラさんがしたのと同じ仕草だった。自分の名前を言っているのだ。「私はセルヴィーニャンです」だ。

þélim が何なのかはわからない。ただ、英語と同じように捉えると「I am Hiro.」のような文にも思える。be動詞のようなもの、だろうか。

昨日、ウェレラさんに名前をたずねられたときも、似た響きの言葉を聞いた気がする。þéles、だったか。でも、あれが同じ言葉なのか、たまたま似ているだけなのかは、わからない。この言葉がどういう順番で並ぶのかも、まだ何ひとつわかっていないのだ。

ともかく、僕も胸に手を当てた。

「þélim híro.」

女の子……セルヴィーニャンは目を丸くして、それから手を叩いて喜んだ。教えたことを、僕がちゃんと使ったからだ。

授業で指されて、うまく答えられたときのような気分だった。

◆

昼前に、ウェレラさんが炉の向こうから声をかけた。

「selvíña!」

セルヴィーニャンが顔を上げて、ウェレラさんのほうへ駆けていった。ウェレラさんは棚の上の壺を指さして、何か頼んでいた。

僕は首をかしげた。

selvíña。n がない。

さっき、本人は selvíñan と名乗った。でもウェレラさんは selvíña と呼んだ。聞き間違いかと思って耳を澄ませていると、そのあともウェレラさんは二度、三度と、同じように呼んだ。selvíña。やっぱり、n がない。

しばらく考えて、思いついた。

n は、「さん」みたいなものなんじゃないか。

初めて会った相手に名乗るときは、ていねいに「セルヴィーニャン」。家族のあいだでは、それを省いて「セルヴィーニャ」。そういうことなのかもしれない。

なかなかいい推理だ、と思った。

そんなふうに考えながら二人を眺めているうちに、昼すぎになって、弓の男が帰ってきた。戸口で毛皮の帽子を脱いで、雪を払った。毛皮の上着の肩や袖に、茶色い繊維の毛羽がいくつもついていた。僕と目が合うと、むっつりした顔のまま、ふいと目をそらした。

セルヴィーニャンが男に何か話しかけた。男は短く答えた。それから、壁の釘に掛かっていた上着のひとつを外して、僕のほうへ放り投げた。上着が僕の頭の上にばさりと落ちてきた。彼は横を向いたまま、ぶっきらぼうに言った。

「na ésa rása sé sáun. kráil.」

何を言ったのかはほとんどわからなかったが、最後の一言には聞き覚えがあった。

昨日、崖の上から、男は叫んだ。kráil fúnel。

kráil は、「持て」かもしれない。

僕は頭の上の上着を手に取った。古い毛皮だった。ところどころ毛が擦り切れて、袖口がほつれている。でも、裏に縫いつけた毛皮は分厚くて、手を入れただけで、かじかんだ指先がゆるんだ。

僕の制服のブレザーでは、ここの寒さはしのげない。男はそれを見ていたのだ。僕は上着を着た。男のものなのか、袖が少し長くて、指先まで隠れた。汗と、煙と、獣の脂の匂いがした。

「ありがとうございます」

男は何も答えなかった。炉のそばにどかりと座って、弓の弦を外しはじめた。こちらを一度も見なかった。

炉の向こうで、ウェレラさんがふっと笑ったような気がした。

◆

午後、ウェレラさんが僕を外に連れ出した。

外に出たとたん、冷たい空気が鼻の奥を刺した。息を吸うと、肺の中まで冷たくなる。それでも、昨日の崖の風に比べれば、ずっとましだった。毛皮の上着が、風をちゃんと止めてくれた。足もとだけは、すり減ったスニーカーの底から冷たさが上がってきて、歩くたびに雪がぎゅっと鳴った。

昨日は暗くてよく見えなかった町の様子が、ようやくわかった。

家が二十軒ほど、なだらかな斜面にばらばらと並んでいた。どの家も、石の土台の上に黒ずんだ木の壁を立て、急な屋根を薄い黒い石で葺いている。どの家も大きい。僕が寝ていた家と同じくらいか、それ以上ある。それなのに、煙が上がっているのは、そのうちの半分ほどだった。屋根の石が落ちて、骨組みの梁だけが空に突き出している家もあった。崩れた土台の石のすきまから、枯れた草が飛び出してさえいる。

寂れている、と感じた。家だけが大きくて、人の住む場所だけが小さく残っている。大きすぎる服を着た子どもみたいな町だった。

町の人たちが、あちこちの戸口から僕を見ていた。誰も近寄ってはこなかった。昨日の夜と同じだ。遠巻きに、ひそひそと何か言い合っている。dulána、という言葉が、また聞こえた。僕が目を向けると、戸口の顔はすっと引っこんだ。目を離すと、また出てくる。

背中に、いくつもの視線が刺さっていた。中学の入学式の日、知らない顔ばかりの教室に入ったときに、少し似ていた。ただ、あのときは少なくとも言葉が通じた。

ウェレラさんは、そんな視線を気にするふうもなく、町の真ん中の、少し広くなったところまで僕を連れていった。そこには井戸があった。石を丸く積んだ井戸の上に木の枠が組んであって、てっぺんの車輪に縄が掛かっている。縄の両端に桶が一つずつ。何人かの女たちが、白い息を吐きながら縄をたぐって、水を汲んでいた。

ウェレラさんは腰に下げた小さな袋の口を開けて、中から何かをひとつまみ取り出した。指先でつまむ量を、確かめるように一度見て、それから少しだけ袋の中へ戻した。白い、粗い粒だった。

「sáko.」

「sáko.」

僕がくり返すと、ウェレラさんはうなずいた。それから、その粒を僕の手のひらに乗せた。そして、僕の指先に、粒を一粒ずつ押しつけた。親指、人差し指、中指。最後に、粒の残った手のひらをぎゅっと握らせて、手を口に近づける仕草をした。言われたとおりに握った拳を口元へ持っていくと、指先についた粒が一つ、唇に触れた。

しょっぱかった。朝の粥がほとんど味がしなかったせいか、その一粒は、舌の上で驚くほど強く広がった。

塩だ。

何かのおまじないだろうか。井戸のまわりの女たちが、それを見て、少しだけ表情をやわらげた。一人の女が、僕に向かって小さくうなずいた。ウェレラさんが袋の口を固く縛り直すのを、女たちは黙って見ていた。

ウェレラさんは女たちのほうへ向き直って、小さな背筋をすっと伸ばした。

「aurénde selvá!」

改まった、歌うような調子だった。家の中での話し方とは違った。

女たちが手を止めて、口々に返した。

「an ilánais.」

挨拶だ、と思った。ウェレラさんが言って、女たちが返す。決まった言い方。会ったときの「こんにちは」のようなものだろう。

僕はウェレラさんの隣で頭を下げて、まねをした。

「aurénde selváこんにちは?!」

女たちが顔を見合わせた。どこから来たのかわからない男が、いきなり挨拶をしたのだ。それから、いちばん年かさの女が、少し驚いたように、でもていねいに返してくれた。

「an ilánaisこんにちは?.」

返事がもらえた。

たったそれだけのことで、胸の奥がふっと軽くなった。塩の味が、まだ唇に残っていた。

さっきの塩はなんだったんだろう。そう考えたとき、横の路地から声が飛んできた。

「tóro híro!」

見ると、昨日の夜、僕の名前を聞いて笑った若い男だった。仲間らしい男たちと三人で、路地の入り口にたむろしている。三人とも、にやにや笑っていた。一人は、壁にもたれて、雪玉を手の中で転がしていた。

僕の名前が入っていた。何かからかわれている。それだけはわかった。でも、何がおかしいのかがわからない。僕は、どんな顔をすればいいのかわからないまま、その場に突っ立っていた。

ウェレラさんの顔が、すっと冷たくなった。

「mé vír!」

短く、鋭い声だった。

若い男たちは首をすくめて、それでもまだ笑っていた。

そのとき、いつの間にか後ろにいたらしいセルヴィーニャンが、一歩前に出た。腰に手を当てて、男たちをにらみつけた。

「tóra híro.」

セルヴィーニャンはそれだけ言って、ふん、と顎を上げた。

若い男たちは顔を見合わせて、肩をすくめて、路地の奥へ引っこんでいった。雪玉が、ぽとりと道に落ちた。

セルヴィーニャンは、振り返って僕を見た。何も言わなかった。でも、その顔は、まだ怒っていた。僕のために怒っているのだった。

◆

僕はその場に突っ立ったまま、今の二つの言葉を頭の中で並べていた。

tóro híro.

tóra híro.

違うのは、最初の言葉の終わりだけだ。tóro と、tóra。

男たちは、o で言って、笑った。

セルヴィーニャンは、a で言い直して、怒った。

o と a。

só と sé。

水は só で、火は sé。氷は só で、雪は sé。

そして僕は、o で呼ばれて、笑われた。

……もしかすると、この言葉では、ものが二つの種類に分かれているのかもしれない。sé で呼ぶものと、só で呼ぶもの。そして、その種類によって tóra と tóro みたいに、形が変わる。ドイツ語やフランス語の話を思い出した。名詞に男性と女性があって、男性名詞と女性名詞で冠詞の形が変わるのだと、英語の先生が雑談で言っていた。机は男性で、窓は女性で、とか。意味なんてない、ただ覚えるしかない、と先生は笑っていた。

これも、そういうものなのか?

だとしたら、なぜ男たちは僕を o のほうで呼んで、笑ったんだろう。

少なくとも僕のことは、a のほうで呼ぶべきらしい。セルヴィーニャンがわざわざ言い直したのだから。

o で呼ぶのは、たぶん、からかうときの言い方なのだ。

じゃあ、なんで僕は o で呼ばれたのか。

híro。僕の名前。

nímbo乳 só。ílmo水 só。glünó氷 só。

o で終わる言葉には、só が付いた。

「……そんな単純なわけはないか」

思わず、日本語でつぶやいた。

隣で、セルヴィーニャンが不思議そうに僕を見上げた。

◆

ウェレラさんは先に家へ帰っていった。僕はセルヴィーニャンが水を汲み終わるのを待った。

帰り道、僕は僕なりに恩を返そうと思った。

セルヴィーニャンが、井戸から汲んだ水の桶を、両手で重そうに提げていた。僕は手を伸ばして、その桶を取った。思っていたより重かった。持ち手の縄が、かさぶたの張った手のひらに食いこんで、ずきりとした。でも、一人で持てない重さじゃない。

セルヴィーニャンは一瞬きょとんとして、それから、にっと笑った。

家まで桶を運んだ。歩くたびに水が揺れて、縁からこぼれた水が僕のスニーカーを濡らし、すぐに冷たくこわばった。戸口に桶を置いたところで、炉のそばにいたウェレラさんが、僕を見て言った。

「fláinim.」

昨日から今日まで、僕は何度も、ありがとう、を言いたかった。でも言えなかった。

今、僕は桶を運んだ。そしてウェレラさんは、僕に何かを言ったのだ。その言葉が何を意味するのか、なんとなくわかった気がした。

夕食のとき、ウェレラさんがまた粥の椀を差し出してくれた。

僕は椀を両手で受け取って、言ってみた。

「fláinimありがとう?.」

ウェレラさんの手が止まった。それから、ウェレラさんは皺だらけの顔をくしゃっとさせて笑った。声を出して笑った。欠けた前歯が見えた。炉の向こうで、セルヴィーニャンも笑っていた。弓の男だけは笑わなかった。けれど、粥をすする手が、一瞬だけ止まったのを、僕は見た。

炉の向こうの、一段高い敷物の上に、ウェレラさんと弓の男が座っていた。僕とセルヴィーニャンは、その下の、低いほうに座っていた。誰に言われたわけでもなかったが、そこが僕の場所だということは、なんとなくわかった。

◆

夕食のあと、セルヴィーニャンが空になった粥の鍋を抱えて立ち上がった。井戸で洗ってくるらしい。もう外は暗い。僕も一緒に行くことにした。

外は昼よりもずっと冷えていた。雪明かりと、家々の戸の隙間から漏れる炉の明かりだけで、道はぼんやり青白く見えた。空には、昨日と同じ、白い月と赤い月があった。

井戸に着くと、近所の女たちが三人、桶を洗いながら話しこんでいた。一人が松明を井戸の枠に立てかけていて、炎が風にあおられるたびに、女たちの影が雪の上で大きくなったり小さくなったりした。

セルヴィーニャンは手早く鍋を洗うと、女たちに軽く会釈して、さっさと先に歩きだした。暗い道を、どんどん行ってしまう。

僕は慌てて、その背中に呼びかけた。家でウェレラさんが呼んでいたのと同じように。

「selvíña! 待って!」

セルヴィーニャンの足が、ぴたりと止まった。

井戸のまわりの女たちの話し声も、ぴたりと止まった。

振り返ると、三人の女たちが、目を丸くして僕を見ていた。それから、互いに顔を見合わせて、口に手を当てた。一人がこらえきれないように、くっくっと笑いだした。もう一人が、「selvíña?」と、わざとらしく甘ったるい声で繰り返して、また笑った。

セルヴィーニャンのほうを見た。

セルヴィーニャンは背を向けたまま、肩をこわばらせていた。暗くて顔は見えなかった。でも、耳が真っ赤になっているのは、松明の明かりでもわかった。鍋を抱えた腕に、ぎゅっと力が入っていた。

セルヴィーニャンはそのまま、僕を待とうともせず、早足で家のほうへ歩いていった。

僕は何がいけなかったのかわからないまま、その後を追った。背中で、女たちの笑い声が、まだ続いていた。

家に帰ると、セルヴィーニャンは寝床にもぐりこんで、毛皮を頭までかぶっていた。洗ったばかりの鍋が、戸口に投げ出すように置いてあった。ウェレラさんが、何か言いたげな顔で僕を見た。弓の男は、炉のそばで額に手を当てて、深くため息をついた。

名前を呼んだだけなのに。家族と同じように、セルヴィーニャ、と呼んだだけなのに。

……いや、と僕は思い直した。それがまずかったのかもしれない。n が「さん」なのだとしたら、僕は、ほとんど知らない相手を、人前で呼び捨てにしたことになる。家族でもない男が、女の子を呼び捨てにした。だから、女たちは笑ったのだ。

n を付けて呼ぶべきだった。

僕はそう結論した。結論して、少しだけ安心した。理由がわかれば、次は間違えずにすむ。

それでも、毛皮の山の下で小さく丸まっている背中を見ると、胸がちくちくした。今日一日で、僕はこの子に何度も助けてもらった。言葉を教えてもらって、かばってもらって、そのお返しに、人前で恥をかかせた。

謝りたかった。でも、ごめん、をこの言葉で何と言うのかも、僕は知らなかった。

◆

その夜、僕はなかなか寝つけなかった。

炉の火が小さくなっていた。赤くなった薪の残りが、ときどき、ぱちりと音を立てた。部屋の奥の暗がりから、冷たい空気がじわじわと床を這ってくる。弓の男の寝息が、低く、規則正しく聞こえていた。

セルヴィーニャンは、もう毛皮から顔を出していた。寝床の上で膝を抱えて、炉の火を見ながら、小さな声で何か歌っていた。

歌は、ゆっくりとした、同じ調子が何度もくり返される歌だった。子守歌みたいだった。

「áura selvá gléin, an élvaran té.  dúlo ílmo水 þáil, es fóndaros tó.」

僕は寝床の中で、その歌に耳を澄ませた。

ílmo は水だ。今日、最初に覚えた言葉だ。

そして、気がついた。

一節目は、áura で始まる。a。

二節目は、dúlo で始まる。o。

一節目の終わりは、té。二節目の終わりは、tó。どちらも「あの」だ。遠くを指す言葉が、二つの種類で言い分けてある。

a と、o。e と、o。

水の出てくる二行目には、o が並んでいる。

この歌は、たぶん、二つの種類の言葉を並べて歌っているのだ。sé の側と、só の側を。

僕はブレザーの胸ポケットから、シャーペンとレシートを取り出した。毛皮の上着の下に、まだブレザーを着ていた。脱いでしまうと、何かを手放してしまう気がした。

シャーペンを一度だけ、そっとノックした。芯は、あと何本入っているのだろう。替えの芯は、鞄と一緒に消えてしまった。

レシートを裏返して、炉の残り火の明かりで、小さな字で書いた。聞こえたとおりにローマ字で書く。日本語にない音には、自分で印をつけた。

ílmo só 水

elþá sé 火

lúsa sé 粥

nímbo só 乳

méula sé 山羊

hílva sé 雪

glünó só 氷

hílva té あの雪(遠い)

kéumo tó あの岩(遠い)

mán 食べろ

níl 飲め

kráil つかめ/持て

fláinim ありがとう?

þélim 〜です?(名前の前に付ける)

それから、その下に、少し大きな字で書いた。

sé/só この(近い)

té/tó あの(遠い)

tóra/tóro

a/o

→ 二つの種類?

→ 人は a。人を o で呼ぶのは悪口。

→ 雪は a なのに、氷は o。なぜ?

最後の一行を書いて、僕はしばらくレシートを眺めていた。

雪と氷。同じ凍った水が、この言葉では、違う側に分かれている。ドイツ語の机と窓みたいに、ただ覚えるしかない区別なのか。それとも、この人たちが世界をどう見ているかが、そこに隠れているのか。

それから、もう一行書き足した。

selvíñan(家族は「selvíña」と呼ぶ)  → n=「さん」? 家族は省く?  → selvíña と呼び捨てにしたら、笑われた。次からは n を付ける。

答えは、まだわからなかった。

小さな紙の表には向こうの世界があって、裏にはこっちの言葉がある。裏の字が、表の字より多くなる日が来るのだろうか。そう思うと、少しだけ怖かった。

炉の火がぱちりと鳴った。セルヴィーニャンの歌は、いつのまにか止んでいた。

僕はレシートを胸ポケットにしまって、目を閉じた。

あの歌がどんな意味なのか。いつか、わかるようになりたいと思った。

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