第6話 これは尋のだ

霧は十日たっても晴れなかった。

そのあいだに、僕はこの家の暮らしの中に、少しずつ僕の場所を作っていった。

朝は水汲み。昼はヒルヴァンについて綱場へ行って、綱を繕うのを手伝う。夕方はフレウレラさんの機のそばで糸を巻く。夜は炉の灰に字を書く。

糸巻きは、フレウレラさんが教えてくれた。教えてくれた、というより、黙って僕の手に糸の束を押しつけて、やってみせて、僕が間違えると、黙って手を直した。糸の束は、毛の長い山羊の脂でしっとりしていて、巻いているうちに指先がつるつるになった。フレウレラさんは、ウェレラさんよりも口数が少なかった。でも、僕の手もとを見ている時間は、誰よりも長かった。

止まっていた機が、また動きはじめた。昼も夜も、とん、とん、と、杼を打ちこむ音が家の中に響いた。その音がしていると、霧の白さが、少しだけ気にならなくなった。

糸を巻いていると、ときどき糸が指先に引っかかった。見ると、爪が伸びていた。落ちてきてから、一度も切っていない。白いところが指の先より長く出て、縁がぎざぎざに欠けていた。

爪切りはない。しかたなく、僕は人差し指の爪の端を前歯にかけて、ぷつりと噛み切った。小学生のころ、よく叱られた癖だ。噛み切ったかけらを指ではじいて、床に落とした。

機の音が止まった。

セルヴィーニャが、糸玉を持ったまま固まっていた。僕の足もとを見ていた。顔から血の気が引いていた。

ウェレラさんが炉の向こうから立ってきた。何も言わなかった。腰をかがめて、床の上を指先で探って、小さな白いかけらをつまみ上げた。それを炉の火の中へ落とした。じっ、とかすかな音がして、髪の毛が焦げるようなにおいが一瞬だけした。

ウェレラさんは僕を見た。それから人差し指を一本立てて、首を横に振った。

だめ、ということらしい。爪を噛むのがだめなのか、床に捨てるのがだめなのか、それとも両方なのか。わからなかった。わかったのは、ここでは爪は火に入れるものらしい、ということだけだった。

伸びた爪は、そのままにしておくことにした。糸が引っかかるたびに、フレウレラさんが黙って僕の指から糸を外した。

夜、寝る前になると、ヒルヴァンは炉のそばで、毛皮の切れ端を膝に広げていた。錐で穴をあけ、細い革紐を通して、引き締める。何を縫っているのか、僕には見せようとしなかった。

灰色の上着は、毎日着た。袖が少し長いのにも、いつの間にか慣れた。

◆

その日の昼過ぎ、綱場から戻る道で、セルヴィーニャが急に立ち止まった。

霧の向こうの、崖沿いの小道のほうに耳をすませている。

足音がした。それから、口笛。短く、高く、二回。

セルヴィーニャの顔が、ぱっと明るくなった。口笛を吹き返した。同じ節で二回。

霧の中から、男が一人、大股で現れた。

若い男だった。僕より、三つか四つ上だろうか。背が高くて、肩幅が広い。日焼けした顔に、白い歯が目立った。額の真ん中を横切って、帯の当たる跡が、日焼けの中に一本、白く抜けていた。背中に、空の背負い枠を担いでいる。枠の木は、何度も擦れたのか、黒く光っていた。足には、底に何か黒いものを塗った、草で編んだような履き物を履いていた。

男はセルヴィーニャを見ると、背負い枠を下ろしもせず、セルヴィーニャを抱え上げた。セルヴィーニャが、悲鳴とも笑い声ともつかない声を上げた。

「hóinsimただいま es dulándos!」

声が大きい。霧の中で、その声だけがくっきりしていた。

「hóinses!おかえり」

セルヴィーニャは、男の肩をばしばし叩きながら言った。

あの空いた釘の主が、帰ってきたのだろう。

◆

男はセルヴィーニャを地面に下ろすと、そこで初めて、僕に気づいた。

笑顔のまま、止まった。

男の目が、僕の顔を見て、それから、ゆっくりと下へ降りた。

灰色の上着の上で、止まった。

「pá ésa?誰だ」

声が一段低くなった。

セルヴィーニャが何か言いかけた。でも、男はもう聞いていなかった。僕の前まで歩いてきて、上着の襟を指でつまんだ。生地を親指でこすった。フレウレラさんと同じ手つきだった。

「rása sé...この服……」

男はそれだけ言って、黙った。

僕は何を言えばいいのかわからなかった。この上着は、たぶんあなたのものです。あなたのお母さんが、あなたのために用意したものです。僕はそれを着ています。どれ一つ、言葉にできなかった。

そのとき、セルヴィーニャが男と僕のあいだに、ひょいと割りこんで、すました顔で言った。

「ésa híros.」

híro に、-os がついている。

僕はこの形を知っていた。

ésa fúnelos。ウェレラさんが、何度も言った言葉。fúnel に、-os がついた形だ。

-os は、「の」なのかもしれない。

この上着は、尋の。セルヴィーニャは、この上着はもう僕のものだと、男に向かって言い切ったのだ。

男はぽかんと口を開けた。

それから、天を仰いで叫んだ。

「dáloro!」

霧の向こうで、誰かの家の戸がばたんと閉まる音がした。

セルヴィーニャが目を丸くして、男の口を両手でふさいだ。男はセルヴィーニャの手の下で、もごもごと何か言った。言いながら、笑っていた。

家の戸口から、ウェレラさんの声が飛んできた。

「mé vír!言うな!」

男は首をすくめた。セルヴィーニャの手をどけて、ウェレラさんに向かって両手を上げてみせた。降参、の仕草だった。それから僕のほうに向き直って、僕の肩を、大きな手で、ばん、と叩いた。

痛かった。

でも男は、笑っていた。さっきの、僕を見て止まった笑顔とは違う、腹の底から出てくるような笑い方だった。

dáloro が何なのかは、わからなかった。ただ、ウェレラさんが叱って、町の誰かが戸を閉めたくらいだから、あまり口にしてはいけない言葉なのだろう。

男は僕の肩に手を置いたまま、顔をのぞきこんだ。汗と、知らない土地の土埃のにおいがした。

「pón þéles?何と名乗る?」

僕に直接たずねた。この町で、僕に向かってじかに名前をたずねたのは、ウェレラさんのほかには、彼が初めてだった。

僕は胸に手を当てた。

「þélim híro.」

男は、にっと笑って、自分の胸を親指で叩いた。

「þélim wérelan.」

wérelan。セルヴィーニャン、フレウレランと同じなら、n を取って wérela。ウェレラさんと同じ名前になってしまう。家族で同じ名前なんて、呼ぶときに困らないのだろうか。

戸口から、そのウェレラさんが呼んだ。

「wérel.」

男は顔を上げて、戸口のほうへ振り向いた。

wérel。a がない。「を」には、n のときと an のときがあるらしい。

ウェレル。それが彼の名前だった。

◆

さっきの -os について考えていた。

ésa fúnelos。

fúnel綱-osのもの。

ウェレラさんは、最初の夜、崖の上で町の人たちの前で言った。寄り合いの夜、倉で太った男の前で言った。フレウレラさんの前でも言った。

ésa が何なのかは、まだわからない。でも、セルヴィーニャが上着を指して「ésa híros尋のだ」と言ったのだから、ésa は「〜だ」とか「〜である」とか、そういう意味だろう。

この者は、綱のものだ。

僕は綱で引き上げられた。だから、綱のもの。

綱の荷、みたいなものだろうか。

ウェレラさんが町の人たちの前でこの言葉を言うと、いつもみんなが黙った。太った男でさえ、口を閉じた。ただ「綱で上げた」と言っているだけなら、あんなふうにはならない気がする。この言葉の後ろには、僕の知らない何か、町の人たちがみんな知っている何かがあるのだ。

ひと月以上も、僕は、自分がどういうわけでこの家にいるのかを知らなかった。

◆

その夜、炉のまわりに六人が座った。

一段高い座に、ウェレラさんとヒルヴァンとフレウレラさん。その下の低いほうに、ウェレルとセルヴィーニャと僕。ウェレルは大きな体を僕の隣に押しこんできて、膝と膝がぶつかった。

炉のまわりに、いつもより人が多いだけで、家の中がずいぶん狭く、あたたかく感じた。

ウェレルは、よくしゃべった。粥を口いっぱいにほおばりながら、身振り手振りで何か話していた。どこかで見た何か、聞いた何か。誰かのまねをして声色を変えると、セルヴィーニャが声を上げて笑った。フレウレラさんも、ときどき口の端を上げた。ヒルヴァンでさえ、一度、ふっと鼻を鳴らした。ウェレラさんは、ウェレルの椀が空になるたびに、黙っておかわりをよそった。

僕には、ほとんど聞き取れなかった。

ウェレルの言葉は速かった。それだけじゃない。セルヴィーニャやウェレラさんの話す言葉と、音が違って聞こえた。言葉の終わりが、ぶつぶつと切れる。セルヴィーニャなら a まで言うところを、ウェレルは途中で飲みこんでしまう。同じ言葉のはずなのに、別の言葉みたいだった。

ひと月かけて、やっと少しわかるようになったと思っていた。それが、話す人が一人変わるだけで、また霧の中に戻ってしまう。

ウェレルが、ドゥランド、と言うたびに、僕は耳をそばだてた。ここでない、どこかにある町のことらしい。ウェレルはそこから帰ってきたのだ。

僕は思いきって、口をはさんだ。

「dulándo... póso何??」

ウェレルは一瞬きょとんとして、それから、膝を叩いて笑った。壁に立てかけた背負い枠を引き寄せて、ばん、と叩いた。

「kráilim持つ ó!」

ドゥランドは、ウェレルが荷を担いで働いている町なのだ。額の白い帯の跡は、あの枠を支える帯の跡なのだろう。

わかった、とうなずこうとしたときには、ウェレルはもう次をしゃべっていた。

背負い枠を背中に当ててみせ、額に帯をかけるまねをして、前かがみに、一歩、二歩と炉のまわりを歩いた。足を上げるたびに、何か数えている。ombár十、と聞こえた気がした。それから天井を指さして、床を指さして、また天井を指さした。石段を上ったり下りたりしているらしい。急に重そうに膝を折って、うめいて、それから僕の顔を見て、何か訊いた。訊いたのだと思う。語尾が上がっていたから。

僕が答えられずにいるうちに、ウェレルは自分で答えて、自分で笑った。それから、今度は誰かの太った腹をまねて、偉そうに顎を上げた。その誰かが何をしたのかは、さっぱりわからなかった。

言葉が速い。知っている言葉が一つ聞こえたと思うと、そのあいだに知らない言葉が十も通り過ぎていく。僕は、あ、とか、う、とか言いながら、ただうなずいていた。うなずくたびに、ウェレルはうれしそうに、ますます早口になった。

セルヴィーニャが、僕の脇腹をひじでつついた。

横を見ると、セルヴィーニャは、あきれたような、面白がっているような顔で、僕と兄を見比べていた。兄さんにものを訊いたら、そりゃこうなるでしょう。そう言われた気がした。

炉の向こうで、ウェレラさんが、聞こえよがしにため息をついた。ウェレルはやっと口を閉じて、空の椀を、ウェレラさんのほうへ差し出した。

◆

粥の鍋が空になったころ、ウェレルの声が急に低くなった。

ウェレルは椀を置いた。笑っていなかった。ウェレラさんのほうを向いて、短く言った。

「ráina brándal orénos.」

炉のまわりが、しんとなった。薪の爆ぜる音が、急に遠くなった気がした。

知らない言葉ばかりだった。でも、ウェレラさんの顔から、さっきまでの笑いが消えたのはわかった。ヒルヴァンが椀を持ったまま、動かなくなったのもわかった。

ウェレルは一度、僕のほうをちらりと見た。それから、もう一度ウェレラさんに向かって言った。

「tóra来る senár.」

senár が来る。

senár が何なのかはわからない。来るというのだから、人なのだろう。誰かが、来る。

フレウレラさんの目が、ほんの一瞬、部屋の隅の木の箱に動いて、すぐに炉の火に戻った。僕はそれを見ていた。

あの箱の底には、僕のブレザーがある。

きっと、僕のことで、誰かが来るのだ。

長い沈黙のあとで、ウェレラさんが口を開いた。小さな体をまっすぐに伸ばして、炉の火をにらむように見ていた。

「ésa fúnelos.この者は綱のものだ」

初めて、意味を知って聞いた。

ウェレラさんは、誰に向かって言ったのでもなかった。ウェレルにでも、ヒルヴァンにでも、フレウレラさんにでもなかった。炉の火に向かって言った。

フレウレラさんは何も言わなかった。ウェレラさんのほうを見もしなかった。黙って、糸を巻く手を動かしていた。巻き終えた糸の玉を、もう一度ほどいて、巻き直していた。

ウェレルはウェレラさんとフレウレラさんの顔を見比べて、それから黙って空の椀の底を見ていた。さっきまであんなにしゃべっていた人とは思えなかった。

寝る前、僕は自分が使っていた寝床を指さして、ウェレルに場所を空けようとした。ウェレルは手を振って笑った。それから、炉の脇に毛皮を何枚か放り出して、その上にごろりと寝転んだ。どこででも寝られる、という顔だった。

◆

夜中に目が覚めた。

炉の火は熾になっていた。寝床の一つが空だった。ヒルヴァンの寝床だった。

僕はそっと起き上がって、戸口まで行った。戸を細く開けた。冷たい空気が、隙間から顔に当たった。

霧が少し薄くなっていた。空の高いところに、ぼんやりと光の粒が一つ、にじんで見えた。星だった。十日ぶりに見る星だった。

霧が晴れはじめている。

崖の縁のほうに、小さな明かりが一つ揺れていた。綱場のあたりだった。最初の夜、僕を引き上げた、あの丸太の台のあるところ。松明の明かりだろう。誰かが、こんな夜中に、綱場にいる。

ヒルヴァンだろう、と思った。

僕は戸を閉めて、寝床に戻った。灰色の上着を、肩まで引き上げた。

霧が晴れたら、誰かが来る。

senár が、来る。

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