第8話 字は法だ

役人が帰った次の朝、目を覚ますと、寝床の足もとに何かが置いてあった。

毛皮の履き物だった。厚い皮を足の形に切って、毛を内側にして縫い合わせてある。足首のところで、革の紐を巻きつけて締めるようになっていた。縫い目は太くて、ところどころ不ぞろいで、でも、どこもほつれていなかった。もう片方も、ちゃんとあった。

炉のそばで、ヒルヴァンが弓の弦を張っていた。こちらを見なかった。目の下が、少し黒ずんでいた。

僕は履き物を手に取って、ヒルヴァンのほうを見た。

ヒルヴァンは、弦から目を上げないまま、ぶっきらぼうに言った。

「na ésa sáun大したもんじゃない. kráil持ってけ.」

言葉はわからなくても、何と言ったかわかった。聞いたことのある言葉だった。

最初の日、ヒルヴァンが毛皮の上着を投げてよこしたときにも、ほとんど同じことを言っていた。

僕は履き物に足を入れた。紐を締めると、足首にぴったり吸いついた。内側の毛があたたかかった。床を踏むと、足音がしなかった。ひと月以上、濡れたスニーカーの中で縮こまっていた指が、ゆっくりと伸びていく気がした。

「fláinimありがとう.」

ヒルヴァンは、ふん、と鼻を鳴らした。

脱いだスニーカーは、フレウレラさんが黙って受け取った。泥を落として、布にくるんで、あの木の箱を開けて、ブレザーの上にそっと置いてふたを閉めた。

これで、向こうから持ってきたもので僕がいつも身につけているのは、シャーペンとレシートだけになった。

◆

ウェレルがドゥランドへ戻っていったのは、その三日後だった。

雨の季節になると、向こうの荷運びが忙しくなるのかもしれない。背負い枠を担いで、来たときと同じ崖沿いの小道を、口笛を吹きながら帰っていった。セルヴィーニャが、見えなくなるまで手を振っていた。

そのウェレルが、六日後に戻ってきた。

口笛は吹いていなかった。

家に入ると、背負い枠も下ろさずに、ウェレラさんの前に膝をついた。息を切らしていた。雨と汗で、髪が額に貼りついていた。草の履き物は泥の塊になっていて、脛に、どこかで擦りむいた赤い筋があった。ドゥランドから、ほとんど走ってきたのだろう。

早口で何か言った。ドゥランドで覚えたのか、語尾を飲みこむ話し方だった。僕にはほとんど聞き取れなかった。

ウェレラさんが何か問い返した。ウェレルが答えた。

「na ésa〜ではない férmal.」

ウェレラさんの顔がこわばった。

ウェレルは、僕のほうをちらりと見た。それから、低い声で続けた。

「dulíþa brándal híro.」

言いながら、ウェレルの手が動いた。手のひらを下に向けて、胸の高さから膝のあたりまで、すっと下ろした。

dulíþa。

聞き覚えのある音だった。

碑だ。krailésa funelár fáron te dulíþo fúnel。セルヴィーニャが読み上げた、あの石の文の中にあった。dulíþo。あのときは、意味がわからなかった。

dul で始まる言葉を、頭の中で並べてみた。

岩棚の歌の、dulénde fláinin。崖の上から順に棚を数えて、一つ数えるたびに繰り返していた決まり文句。

それから、セルヴィーニャが炉の前で口ずさんでいた歌。áura で始まる一節と、dúlo で始まる一節があった。dúlo の節には、ílmo水が出てきた。水は、上から下へ流れる。

dúl は、たぶん「下りる」だ。

だとしたら、碑の dulíþo は、綱が荷を「下ろす」。ウェレルの dulíþa も、同じ「下ろす」なのではないか。

dulíþa brándal hírobrándal が尋を下ろす。

崖の下へ。

ウェレルの手が下ろされた先を、僕はしばらく見ていた。膝のあたりで止まった手のひら。その下には、もう何もない。

あの日、岩棚から見下ろした、白いもやの底。平たく光るもの。dáloros。口にしてはいけない場所。

あそこへ下ろす、ということなのか。そう思った途端、ほかの意味が考えられなくなった。

そこに何があるのか、僕は知らない。誰がいるのかも知らない。ここの言葉を、やっと少しずつ覚えはじめたところなのに、また一から、知らない言葉の中に放り出される。今度は、崖の途中ではなく、崖の下に。

手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。

◆

炉のまわりで、誰も口をきかなかった。

フレウレラさんは糸を巻く手を止めていた。セルヴィーニャは両手で膝を抱えていて、ヒルヴァンは、ただ炉の火をにらんでいた。屋根を叩く雨の音だけが、やけに大きく聞こえた。

ウェレラさんが言った。

「ésa fúnelos.この者は綱のものだ」

いつもの言葉だった。でも、いつもより声が小さかった。

ウェレルが首を振って言った。

「na ésa férmal.それは férmal ではない」

férmal が何なのか、わからなかった。ただ、ウェレラさんが「綱のものだ」と言い張ってきたことが、ドゥランドでは通らない、ということを言っているらしいのは、わかった。

わからないまま、黙って決められるのは嫌だった。僕は、聞いてみようと思った。

この前来た二人組は、ヒルヴァンに pá ésa funelár綱の係は誰だ と聞いた。pá は「誰」だ。書記は pón þéla何と名乗る と聞いた。-n は「を」だから、pón から n を取れば、「何」が残るはずだ。

僕はウェレルのほうを向いて言った。

「pó ésa férmal?férmal は何?」

ウェレルが目を見開いた。僕から質問が出るとは、思っていなかったのかもしれない。セルヴィーニャが、小さく得意そうな顔をした。

ウェレルは、一度口を開きかけて、閉じた。それから、ゆっくりと息を吸った。次に出てきた言葉は、さっきまでとはまるで違った。一語ずつ、区切って、はっきりと。僕の顔を見ながら、通じているかどうか確かめるように。

左の手のひらを広げて、右の人差し指で、その上に何かを書くまねをした。

「lísa brándal.」

lísa。lisá文字 に似ている。セルヴィーニャが、碑の前で教えてくれた言葉だ。

brándal が、字を書く。

手のひらに書いたものを、とんとんと指で叩いた。

「ésa férmal.férmal だ」

brándal が書いたものが、férmal。

その brándal がわからない。さっきウェレルは、brándal が僕を下ろす、と言った。僕は、もう一つ聞いた。

「pá ésa brándal?brándal は誰?」

ウェレルは、自分の肩をつまんで、上着を何枚も重ねるような手つきをした。それから、首を伸ばして顎を上げて、人を見下ろす顔をしてみせた。セルヴィーニャが、ぷっと噴き出した。

あの、黄色い上着の男だ。いかにも役人という態度だった。

「ésa senár brándales.役人は brándal の者だ」

brándales の -es は、ésa fúnelos の -os に似ている。これも「の」だろう。fúnel には -os、brándal には -es。sé と só みたいに、言葉によって「の」にも二つの形があるのかもしれない。

役人は、brándal の者。

あの役人たちは、あの日、待てとだけ言って帰っていった。何かを決めるのは、役人ではなく、その上にいる誰かなのだろう。それが brándal。役人をよこしたところ。人ではなくて、役所とか、お上とか、そういうものなのかもしれない。

そのお上が書いたものが、férmal。

でも、書いたものなら、何でもそうなのだろうか。

僕は炉の脇に冷えた灰をかき出して、手でならして、指で字を書いた。hiroh i r o。それから、その字を指さして、ウェレルを見た。

「ésa férmal?」

ウェレルは灰の字を見て、それから僕の顔を見て、こらえきれないように笑った。笑いながら、首を横に振った。

「na ésa.」

違うらしい。僕が書いた名前は、férmal ではない。書いてあれば何でもいい、というわけではないのだ。

笑うのをやめて、少し考えてから、今度はウェレラさんのほうを手で示した。

「víra werélaウェレラ ré ésa fúnelosこの者は綱のものだ.」

後半は、ウェレラさんが言った言葉そのものだった。

ウェレラさんが「この者は綱のものだ」と言う。そういうことを言っているのだろう。

ウェレルは首を振って言った。

「na ésa férmal.férmal ではない」

ウェレラさんの「綱のものだ」は、férmal ではない。

わざわざ並べて、違う、と言うのなら、二つは似たものなのだ。似ているから、違いを言う。

ウェレラさんの「綱のものだ」は、決まりだ。寄り合いの夜、町の人たちはその一言で黙った。誰が僕を預かるのか、誰が僕に食べさせるのか、その一言で決まった。少なくともこの町では、みんながそれに従っていた。

だとすると、férmal も、決まりの一種なのかもしれない。

ただ、お上が書いた決まり。この町の上にいる誰かが、書いて決めたこと。だから、この町でも、ドゥランドでも通る。そして、口で言うだけの決まりは、それには勝てない。

町より上の誰かが決まりを書いて、みんなに守らせるもの。

法律、みたいなものだろうか。

◆

そう思うと、役人が来た日のことが、違って見えてきた。

あの日、若い書記は僕の名前をヒルヴァンにたずねた。僕は自分で答えた。でも、筆は動かなかった。ヒルヴァンが同じ名前を言って、それから、やっと筆が動いた。

あのときは、僕の言葉には重さがないのだと思った。それは、たぶん、そのとおりだ。

でも、それだけじゃなかった。書記は、ヒルヴァンの言葉を聞いて、それで終わりにしなかった。わざわざ紙に書いた。倉の老人が、崩れた棚の名前を言ったときも。ヒルヴァンが、下からは誰も来ない、と言ったときも。そのたびに、筆が動いていた。

聞いただけでは、足りないのだ。書いておかなければいけない理由がある。

役人は、あの場では何も決めなかった。séir待て、とだけ言って帰っていった。持って帰ったのは、書記の紙だけだ。

ドゥランドで、誰かがあの紙を読む。役人の上にいる、brándal の誰かが。その人は、井戸の前にいなかった。ウェレラさんの声も、倉の老人の声も、聞いていない。その人のところに届くのは、紙に書いてあることだけだ。

ここでは、口で言ったことより、書いたもののほうが重いのかもしれない。書いたものだけが、遠くまで、上まで、届くから。

だから、na ésa férmal法律ではない。

決まりを、書いたもの。

碑。

僕は、あの石に刻まれた文を、頭の中に呼び出した。

krailésa持つ? funelár綱の係 fáron te dulíþo下ろす fúnel綱.

綱の係が、何かを、持つ。綱が下ろす、何かを。

僕はもう一度、ウェレルのほうを向いた。

「pó ésa fáron?fáron は何?」

ウェレルはきょとんとした。それから、ああ、という顔をして立ち上がった。戸口のそばに立てかけてあった背負い枠のところへ行って、その横に置いてあった布の包みを、ぽんと叩いた。それから、包みを背負うまねをして、前かがみに二、三歩歩いてみせた。

「éso fáron.これが fáron だ」

fáron は、荷だ。運ぶもの。担ぐもの。

それに、éso。o で言った。荷は só の側なのだ。

krailésa funelár fáron綱の係が荷を持つ te dulíþo fúnel綱が下ろす.

残るのは、te だけだった。

te がなければ、「綱の係が荷を持つ」と「綱が下ろす」が、ばらばらに並んでいるだけになる。te は、その二つをつないでいるのだろう。荷の後ろに来て、それがどんな荷なのかを、後ろから説明している。英語の that みたいなものかもしれない。

krailésa funelár fáron te dulíþo fúnel綱の係は綱が下ろす荷を預かる.

あの碑に書いてあるのは、綱の決まりなのかもしれない。綱で運ぶ荷は、綱の係が持つ。預かる。責任を持つ、ということ。ウェレラさんがずっと言い張ってきた「綱のもの」と、同じことが石に刻んである。

気がつくと、僕は立ち上がっていた。

炉のまわりの全員が、立ち上がった僕を見上げていた。

僕は言葉を探した。でも、僕の持っている言葉は、少なすぎた。文にならない。並べるしかなかった。

僕は崖のほう、碑のある方角を指さした。

「kéumo!石」

それから、指で宙に字を書くまねをした。

「lisá!字」

それから、ウェレルを指さして、さっきウェレルが言った言葉を、そのまま返した。

「ésa férmal法だ!」

しばらく、誰も動かなかった。

最初に動いたのは、ウェレラさんだった。

小さな目を、大きく見開いていた。それから、ゆっくりと、何度もうなずいた。そして、僕に向かってではなく、家族に向かって言った。

「ésa lisá férmal.字は férmal だ」

しかし、ヒルヴァンが顔をしかめて、首を振った。

「ké faronérimor kéumo tóあの石を?」

faronérimor は、知らない言葉だった。でも、-imor は「私たちが」。その前の faronér は、さっきウェレルに教わった fáron に、よく似ている。荷。荷にする。担ぐ。

あんな重いものを持っていけるか、ということだろう。碑は、地面に根を張ったように立っている。僕の胸ほどの高さの石の柱だ。ドゥランドまで運べるわけがない。

ウェレルが、さっきと同じように、手のひらに字を書くまねをした。

「lísimor.私たちが書く」

書き写せばいい、ということだ。

ウェレラさんが首を振った。ウェレルの手を指さして、それから、自分の手を指さして、何か言った。

字を写すのは、誰かの手だ。手で写したものは、写した人の字になる。写し間違えるかもしれない。わざと書き変えるかもしれない。そう言われたら、終わりだ。たぶん、ウェレラさんはそういうことを言っている。

だから、石そのものの形を、持っていかなければならない。

◆

僕は方法を知っていた。

中学の修学旅行で、奈良の寺に行った。境内の隅に、拓本を取る体験のコーナーがあった。古い石碑の複製に、湿らせた和紙を貼りつけて、墨をつけたたんぽで、上から軽く叩いていく。そうすると、石の表面の、平らなところだけに墨がつく。彫りこんだ溝には、墨が届かない。紙をはがすと、黒い地の中に、刻まれた字が白く浮かび上がる。

僕は薪の山から、割った面が平らな一本を選んだ。炉の火箸を取って、その先で、平らな面に字を刻んだ。hiroh i r o。セルヴィーニャに教わった字で、僕の名前。溝は浅いけれど、指でなぞれば、はっきりわかる。

次に、胸ポケットからレシートを出した。ここに来てから、ずっと言葉を書きためてきた紙だ。何も書いていない端のところを、指の幅ほど、ちぎった。

ちぎる前に、少しだけ迷った。表には、本屋の名前と日付がある。そこには手をつけないように、端だけを。

セルヴィーニャが、あ、という顔をした。この紙を僕がどれだけ大事にしているか、知っているのだ。

ちぎった紙を、薪の字の上に載せた。動かないように、左手の指で両端を押さえた。

それから、右手の人差し指を、炉の縁の、煤で黒くなった石にこすりつけた。指先が真っ黒になった。その指の腹を寝かせて、紙の上を、そっと、端から端までこすっていった。

紙の下で、薪の平らなところに当たった部分だけが、黒くなっていく。字の溝の上では、紙が少しへこんでいて、指の腹が届かない。そこだけが、白いまま残る。

紙を、薪からはがした。

黒くこすれた紙の真ん中に、hiroh i r o の字が、白く抜けていた。

僕はその紙を、みんなに見えるように持ち上げた。それから、碑のある方角を指さした。

薪の字は、手で写したんじゃない。字の形が、そのまま紙に移った。これなら、字だけでなく、石の傷も、欠けたところも持っていける。疑われても、あの石と比べてもらえる。

セルヴィーニャが、紙と薪を何度も見比べた。ウェレルが身を乗り出した。ヒルヴァンは黙って、薪の溝を親指でなぞっていた。それから、紙の白い字に、もう一度親指を当てた。

でも、この紙は、指の幅しかない。碑の文は、その何十倍もある。

僕はフレウレラさんのほうを向いた。

布が要る。

セルヴィーニャが、真っ先に動いた。

部屋の隅に走っていって、何かを抱えて戻ってきた。生成りの上着だった。母親が遠くの町から持って帰ってきた、あの、縁に黄色い糸を織りこんだ上着。

セルヴィーニャは、それを両手で僕に差し出した。

フレウレラさんがその手を、そっと押し戻した。首を振った。それから立ち上がって、荷の中から生成りの布を一枚取り出した。染めていない、目の細かい、薄い布だった。

フレウレラさんは、その布を僕の手に載せた。

セルヴィーニャは上着を抱えたまま、口をとがらせた。でも、僕と目が合うと、にっと笑った。

◆

その日の午後、雨が小降りになるのを待って、僕たちは碑の前に立った。

ウェレラさん。ヒルヴァン。フレウレラさん。ウェレル。セルヴィーニャ。それに、どこから聞きつけたのか、倉の老人までついてきた。雨で水かさを増した滝が、前に来たときより低く、太い音を響かせていた。

碑の表面を水で洗った。こびりついた苔を、指でこそげ落とした。爪の間に緑の汁が入りこんで、冷たい石の感触が指先にしみた。苔の下から、前に来たときは読めなかった線が、いくつも出てきた。

布を湿らせて、碑の面に貼りつけた。ウェレルとヒルヴァンが上着を広げて、碑の上に雨よけを作った。その下で、フレウレラさんとセルヴィーニャが布の端を押さえてくれた。布は石の上でぴたりと吸いついた。刻まれた溝の上で、布がわずかに沈んだ。

たんぽは、ヒルヴァンが作った。毛皮の切れ端に毛の長い山羊の毛を詰めて、丸く縛った。墨は、フレウレラさんが炉の煤を脂で練ったものだった。指につくと、なかなか落ちない黒だった。最初のひと叩きで、煤が溝まで入った。たんぽの煤を布で拭って、もう一度、軽く叩いた。今度は、溝が白く残った。

僕はたんぽに煤をつけて、布の上から軽く叩いた。

とん。とん。とん。

強く叩くと、溝の中まで煤が入ってしまう。軽く。表面だけ。

黒い地が、少しずつ広がっていった。その中に、白い線が浮かび上がってきた。

輪っかから尾が跳ね上がった形。端で下へ折れる線。上に点を載せた、細い縦の棒。

セルヴィーニャが息をのむ音がした。

一行目を叩き終えるのに、長い時間がかかった。小雨が首筋に入りこんだ。叩く手首がだるくなった。誰も帰ろうとしなかった。

二行目に移った。前にセルヴィーニャと来たときは、苔に埋もれて、ほとんど読めなかった行だ。

白い字が一つ浮かぶたびに、隣でセルヴィーニャが、小さな声で読んでいった。

「krailésa…… funelár…… fáron…… te……」

一行目と、同じだ。同じ決まりを、念のために二度刻んだのだろうか。

「……auríþo…… fúnel.」

dulíþo のところが、auríþo になっている。

áura。セルヴィーニャが炉の前で口ずさんでいた、あの歌の最初の言葉。あの歌は、áura で始まる一節と、dúlo で始まる一節が、対になっていた。dúl が「下りる」なら、その対の áura は、「上がる」ではないか。

dulíþo が下ろす。だったら、auríþo は、上げる。

碑には、下ろすときの決まりと、上げるときの決まりが、並べて刻んであったのだ。

僕は、綱で上げられた。

たんぽを持ったまま、手が止まった。顔を上げると、ヒルヴァンが、二行目をじっと見ていた。あの日、僕を引き上げたのは、ヒルヴァンの綱だった。

ウェレルが、僕の手からそっとたんぽを取った。二行目の残りは、彼が叩いた。叩くのがうまかった。強すぎず、弱すぎず、同じ拍子で。荷を担ぐ人の、力の加減を知っている手だった。

全部を叩き終えたのは、日が傾きかけたころだった。

布の四隅を手分けして持ち、そっと碑からはがした。

krailesa funelara farona te duliþo funela.
krailesa funelara farona te auriþo funela.

黒い布の上に、石の文が白く浮かんでいた。

倉の老人が、黒くなった布の端を指でなぞった。何か小さくつぶやいて、何度もうなずいた。

ウェレラさんは布の前にしゃがみこんで、二行目の字を、一つずつ指でたどった。auríþo のところで、指が止まった。それから、目を閉じた。

帰りは、ウェレルとヒルヴァンが布を広げたまま持って歩いた。字の面には、誰も触れなかった。

◆

その夜、ヒルヴァンが炉の前で言った。

「gélimor私たちが行く.」

この家の人たちが、僕と一緒に、ドゥランドへ行く、ということだろう。この布を持って。

僕は、炉のそばに広げた黒い布を見た。指の煤は、何度洗っても爪の際に残っていた。

あの石は、何百年も、あそこに立っていたのだろう。道が崩れたのか、人が通らなくなって、苔に埋もれて、誰も読まなくなっても、ずっと立っていた。

ウェレラさんの「綱のもの」は、口で言うだけの決まりじゃなかった。綱で上げた荷は、綱の係が預かる。ずっと前に、石に刻まれた決まりだった。

道の入り口に、決まりを石に刻んで立てる。それは、たぶん、お上のすることだ。昔の brándal が立てたものなら、今の brándal にも、話は通じるかもしれない。

ただ、碑に書いてあるのは、荷の決まりだった。綱が下ろす荷。綱が上げる荷。

僕は、綱で上げられた。でも、僕は荷なのだろうか。

この布を見て、ドゥランドの brándal が何と言うのかは、わからない。それでも、手ぶらで行くよりはいい。

僕は、これを運んでいかなくてはならない。

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