第9話 尋は荷ではない

崖の縁に沿って、岩と岩のあいだを縫うように道が続いている。右手はずっと崖で、雨に濡れた岩の向こうに、白い雲の底が広がっていた。左手は、低い木がしがみつくように生えた、石だらけの斜面だった。ところどころ、道と呼べるものは消えて、岩の上に残った山羊の糞だけが目印になった。

ウェレルが先頭を歩いた。その後ろに、ウェレラさん。ヒルヴァンはウェレラさんのすぐ後ろについて、足場の悪いところでは黙って手を貸した。僕はいちばん後ろだった。

セルヴィーニャとフレウレラさんは、町に残った。出がけに、セルヴィーニャは僕の上着の紐を結び直して、何か小さな声で言った。意味はわからなかった。フレウレラさんは何も言わずに、ウェレラさんの肩に毛織りの布を一枚かけた。

黒い布は、ウェレラさんが胸に抱えていた。油を引いた布で二重にくるんで、雨が入らないようにしてあった。

ヒルヴァンの縫ってくれた履き物は、濡れた岩の上でも、すべらなかった。

町を出るのは、初めてだった。振り返ると、崖の縁に、綱場の腕木が一本、灰色の空に向かって突き出しているのが見えた。それが岩の陰に隠れると、あとは岩と、雲と、雨だけになった。

ウェレラさんの歩みは遅かった。上り坂では、二十歩ごとに立ち止まって、息を整えた。誰も急かさなかった。ヒルヴァンは、母親が止まるたびに自分も止まって、何でもないように崖の下を眺めていた。

◆

昼過ぎに尾根を一つ越えると、急に視界が開けた。

町があった。

僕たちの町よりも、ずっと大きかった。崖の縁から斜面の下のほうへ、家々が段になって広がっている。屋根から何本も煙が上がっていた。人の声がした。荷車の音がした。どこかで、金属を打つ音がしていた。

ふた月あまり、二十軒ほどの家と、同じ顔ぶれしか見ていなかった。人の声が、こんなにたくさん重なって聞こえるのは、駅の改札以来だった。

そして、崖の縁に、巨大なものが立っていた。

綱場だった。僕たちの町のそれとは、比べものにならなかった。丸太を組んだ台がいくつも並んでいる。台の根元には、横倒しの太い巻き胴があって、そこから何本もの棒が、車の輻のように突き出していた。その棒の一本一本に、男たちが取りついていた。一つの巻き胴に、十人ほど。

綱の先には、黒い丸太が一本、吊るされていた。人の胴より太い丸太が、崖の外の空中に、ゆっくりと下りていく。

丸太の重さで、巻き胴はひとりでに回ろうとする。男たちは棒を握って、それに逆らっていた。腰を落とし、足を踏んばり、体ごと棒にもたれかかって、巻き胴が回りすぎないように押さえている。それでも棒は、少しずつ、男たちを押し戻すようにして回っていく。男たちは掛け声に合わせて、一歩、また一歩と、後ずさりしながら棒についていく。回すのではなく、回りたがるのを、少しずつ許している。

腕木の先には、車輪があった。そこまでは、僕たちの町の綱場と同じだ。

違うのは、丸太のほうだった。丸太を縛った綱のすぐ上に、もう一つ車輪がぶら下がっている。腕木から下りてきた綱は、その車輪をくぐって、また腕木のほうへ上がっていく。丸太が下りると、その車輪も、丸太と一緒に下りていく。

動滑車だ。

僕が町の綱場の雪の上に描いて、ヒルヴァンに踏み消された、あの絵と同じものだった。上の丸と、下の丸。そのあいだを行き来する綱。ここの人たちは、とっくにそれを知っていて、使っていたのだ。

それでも、一本の丸太に十人がかりだった。あの黒い丸太は、見た目よりずっと重いのだろう。

ネタ帳の一行は、ここではとっくに誰かが思いついていた。少しだけ、拍子抜けした。考えてみれば当たり前だった。何百年も重いものを下ろしてきた人たちが、気づかないはずがない。

ヒルヴァンが隣で、その綱場を見ていた。

何も言わなかった。でも、長いあいだ、目を離さなかった。

◆

町の中は、人でいっぱいだった。

背負い枠を担いだ運び人たち。色のついた上着を重ねた商人たち。広場には、荷車を引く毛山羊。道ばたで何かの肉を焼いている屋台。石畳はすり減って、真ん中が浅くくぼんでいた。

話し声があちこちから聞こえた。でも、僕にはほとんど聞き取れなかった。ウェレルと同じだった。言葉の終わりがぶつぶつと切れる。速い。荒い。僕たちの町の人の、ゆっくりした、語尾まできちんと言う話し方とは、まるで違った。

屋台の前を通りかかったとき、焼けた脂のにおいに、思わず足が止まった。串に刺した肉が、炭の上でじゅうじゅうと音を立てている。ふた月あまり、粥ばかり食べていた腹が、正直に鳴った。

僕は串を指さして、屋台の男に聞いた。

「pósoこれは何?」

男は串を返す手を止めずに、早口で答えた。

「méul sé!」

méul。

知っている言葉のはずだった。セルヴィーニャが、戸口の外の山羊を指さして教えてくれた。méula sé。でも、最後の a が、ない。

前を歩いていたウェレルが振り返った。僕の顔を見て、笑った。それから、ゆっくりと、一語ずつ区切って言った。

「méula.」

それから、屋台の男のほうへ顎をしゃくって、男の口ぶりをまねてみせた。

「méul.」

同じ言葉だ。この町の人は、終わりの a を言わないのだ。ウェレルの言葉がぶつぶつ切れて聞こえたのも、これだったのかもしれない。碑の funelara を、セルヴィーニャが funelár と読んだのと、少し似ている。

僕は口の中で、méul、と言ってみた。屋台の男が、なぜか満足そうにうなずいて、焼けた串を一本、僕の鼻先に突き出した。ウェレルが慌てて、首を振りながら僕の背中を押した。

ウェレラさんは、まっすぐ前を見て歩いた。小さな体で、人ごみをかき分けるでもなく、ただ歩いた。肩にかけた毛織りの布の端が、雨に濡れて重く垂れていた。不思議と、人が道をあけた。

◆

連れていかれたのは、急な石段を下りきった先、綱場のすぐ脇に建った石造りの小屋だった。

中は薄暗かった。墨のにおいと、湿った石のにおいがした。奥の一段高くなったところに、男が一人座っていた。

五十を過ぎているだろうか。痩せていて、白髪まじりの髪を後ろで束ねていた。上着を何枚も重ねていた。いちばん外は深い緑。その下に黄色。その下に赤みがかった茶色。

町に来た役人よりも、一枚多い。

その役人もそこにいた。緑の上着の男の一段下の脇に立っていた。書記の若い男も、その隣に箱を下ろして座っていた。書記は、僕と目が合うと、すぐに目をそらした。

ウェレラさんとヒルヴァンは、土間に膝をついた。ウェレルもその後ろに膝をついたので、僕もその隣に膝をついた。土間は冷たくて、湿っていた。膝から、冷たさがじわじわ上がってきた。

ウェレラさんが、頭を下げたまま、改まった声で言った。

「aurénde selváこんにちは!」

緑の上着の男は、短く返した。

「an ilánaisごきげんよう.」

ウェレラさんには、返事があった。

あの日、井戸の前で、僕の同じ挨拶には誰も返さなかった。僕は黙って膝をついていた。口は開かなかった。

緑の上着の男は、僕たちを上から見下ろしていた。

それから、ウェレラさんが長いあいだ話した。僕にわかる言葉は、ほとんどなかった。ただ、ésa fúnelosこの者は綱のものだ が二度聞こえた。funelár綱の係 が何度も聞こえた。ウェレラさんの声は、一度も震えなかった。でも、膝の上で重ねた手の指が、ときどき白くなるほど握りしめられていた。

話し終えると、胸に抱えていた包みを土間の上に置いた。油を引いた布を、一枚ずつほどいた。

黒い布を広げた。

小屋の中が、しんとなった。

緑の上着の男が身を乗り出した。それから立ち上がって、高いところから下りてきた。黒い布の前にしゃがみこんだ。

黄色い上着の役人も、書記も、首を伸ばしていた。

彼は白く浮かんだ字を指でたどった。一行目を口の中で読み上げた。

「krailésa funelár fáron te dulíþo fúnel綱の係は綱が下ろす荷を預かる.」

それから、二行目。

「krailésa funelár fáron te auríþo fúnel綱の係は綱が上げる荷を預かる.」

緑の上着の男の指が、auríþo のところで止まって、長いあいだ動かなかった。

白い字のあいだを、細い筋が一本走っていた。石のひびまで写っている。手で写したものではないことは、伝わっただろうか。

立ち上がって、ゆっくりと高い座へ戻った。座り直して、僕たちを見下ろした。

そして、言った。

「na ésa híro fáron.尋は荷ではない」

僕のほうは見なかった。帳簿の一行を読み上げるような声だった。

人は fáron荷 ではない。綱で上げられたとしても、人は荷ではない。だから、荷の決まりは人には使えない。

たぶん、そういうことだ。

ウェレラさんが顔を上げた。何か言い返そうとして、口を開いた。でも、言葉が出てこなかった。

小屋の中の誰も、動かなかった。外から、巻き胴のきしむ音と、男たちの掛け声が、遠く聞こえていた。

そのとき、緑の上着の男が書記のほうを向いて、何か言った。書記は箱の中から紙を一枚取り出して、男に差し出した。

あの町で書記が筆を走らせていた、あの紙だろうか。

男は紙に目を落とした。上から順に、目で追っていった。そして、ある一行で止まった。

小さく、声に出して読んだ。

「ké táiso es dáloros?」

あの黄色い上着の役人の言葉だった。町の井戸の前で、役人が僕を見ながら、書記に向かって言った言葉。

書記は、それをそのまま書いていたのだ。

táiso。

人を o で言うと、嫌な顔をされる。だから悪口なのだと思っていた。でも、o で言うものは、ほかにもある。

水。氷。石。

そして、荷だ。

あの役人は、僕のことを、荷と同じ形で言った。そして書記は、それを紙に書いた。

ウェレラさんは、何も言わなかった。顎を引いて、緑の上着の男から目をそらさなかった。井戸の前で、あの言葉を a で言い直したときと、同じ顔だった。

緑の上着の男は紙から目を上げて、脇に立っている黄色い上着の役人を見た。役人はまっすぐ前を見たまま、動かなかった。緑の上着の男は、それから土間の黒い布にもう一度目を落とした。長いあいだ黙ったあと、口の端をほんの少しだけ上げた。笑ったのかどうかは、わからなかった。

男が言った。

「kráila funelár híro.綱の係が尋を預かる」

書記が筆を走らせた。新しい紙に、何行も書いた。書き終えると、緑の上着の男は、さっきの古い紙をその横に並べて置いた。それから腰の札を外して、新しい紙の端に押し当てた。

札の跡が、紙に残った。

書き留められた。印が押された。

それで決まったのだ。

ヒルヴァンの肩から力が抜けるのが見えた。ウェレルが長い息を吐いた。僕の膝は、冷たさでもう感覚がなくなっていた。

◆

小屋を出ると、雨がやんでいた。

雲の切れ間から、夕方の光が斜めに町を照らしていた。綱場の巻き胴が、まだぎしぎしと鳴っていた。

僕は、僕がどう書かれたのかを考えていた。

助かったのは、わかっている。下へ下ろされずに済んだのは、たぶん、僕が荷と同じ形で書かれていたからだ。

あの紙の上で、僕は水や石と同じ側にいる。

でも。

前を歩いていたウェレラさんが立ち止まって、振り返った。

僕の顔を下から見上げた。それから、手を伸ばして、僕の上着の胸を、とん、と突いた。

まわりの誰にでも聞こえる声で、はっきりと言った。

「táisa.来た」

それだけ言うと、また前を向いて歩きだした。小さな背中が、人ごみの中をまっすぐに進んでいった。

僕はその背中を追った。

履き物が、濡れた石段の上で、しっかりと地面をつかんでいた。

◆

その夜は、ドゥランドの宿に泊まった。

大きな石段の上の、古い一角にある宿だった。部屋は狭くて、壁の石が煤で真っ黒だった。ウェレルが壁の煤を指でこすって、肩をすくめてみせた。いちばん安い宿、ということらしかった。壁の向こうから、運び人たちの笑い声と、誰かのいびきが聞こえていた。

ヒルヴァンとウェレルは、すぐに眠った。ウェレラさんは、小さな灯の前に座って、黙って何かを考えていた。ときどき、膝をさすっていた。半日の道を歩き、冷たい土間に膝をついて、長いあいだ話した膝だった。

僕は寝床の中で、今日一日のことを思い返していた。

僕は、綱の荷として預かられた。あの記録の中で、僕は o で呼ばれていた。水や、氷や、石と同じ側。

そして、その荷を預かるのは、ウェレラさんたちだ。綱の決まりで。

拓本は役に立った。それでも、受け取ったものの大きさを思うと、まだ足りない気がした。

粥を自分の分から食べさせてもらった。ヒルヴァンの古い上着と、ウェレルのための新しい上着をもらった。ヒルヴァンが何日もかけて縫った履き物をもらった。今日は、ウェレラさんが、あの足で、崖沿いの道を半日歩いてくれた。この宿の代金まで払ってもらっている。

僕がしたことといえば、水と薪を運んだことと、拓本の取り方を身振りで伝えたことくらいだ。

何か言わなければ、と思った。

僕は寝床から起き上がって、灯の前のウェレラさんの横に座った。

「fláinim.」

ウェレラさんは、小さくうなずいた。

でも、隣の寝床で寝ていたはずのウェレルが、片目を開けて、首を振った。違う、というのではなかった。ここで言うなら別の言い方がある、という顔だった。

ウェレルは寝床から身を乗り出して、僕の耳もとで、ゆっくりと一つの言葉を言った。

「auríþen.」

それから、両手を下からすくい上げるように、ゆっくりと持ち上げてみせた。

auríþ。碑の二行目の、auríþo。上げる。

上げられた。引き上げてもらった。

あの夜、綱で崖の上へ。今日、下ろされずに、この人たちの荷として。

僕はウェレラさんに向き直って、頭を下げた。

「auríþen.」

膝をさすっていたウェレラさんの手が止まった。

しばらく、僕を見上げていた。それから、ほんの少しだけ目を細めて、灯を吹き消した。暗闇の中で、ウェレルが、くっくっと笑う声がした。

◆

次の朝、僕たちはドゥランドを出た。

尾根の上で、一度だけ振り返った。

ドゥランドの綱場が、遠くに見えた。何本も並んだ腕木。その下で、黒い荷がゆっくり動いていた。巻き胴のまわりで腰を落とす男たちの姿が、目に浮かんだ。

ヒルヴァンも立ち止まって、同じものを見ていた。

僕たちの町の綱場には、腕木が一本しかない。滑車も、一つしかない。

僕は雪の上に描いて、踏み消された絵のことを思い出していた。

僕には、まだ何もない。言葉は子どもほども話せない。字は半分も読めない。この世界のことは、ほとんど何も知らない。

でも、数は数えられる。倉の老人の石の板の仕組みは、すぐにわかった。滑車の仕組みも知っている。

でも、一つくらいは。

この人たちに、荷ではなく、役に立つものとして、何かを返せるように。

ヒルヴァンが前を向いて歩きだした。僕は、そのあとを追った。

――第二部 預かりと引き受け 了

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