小説
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その夜も、雨が降っていた。
雨季の終わりの雨は、もう激しくはなかった。屋根の石を細い指でなぞるような、静かな音だった。軒から落ちる雫の音が、戸口の外の水溜まりで、ぽつん、ぽつんと間をあけて鳴っていた。
炉の火は小さくなっていた。赤い熾の上で、ときどき薪の端が思い出したように炎を上げて、また沈んだ。壁に映る影が、そのたびに大きくなったり小さくなったりした。
ウェレラさんは、炉の上手の座で、膝に毛山羊の毛を広げて、指先でほぐしていた。フレウレラさんは機の前に座って、杼を左右に走らせていた。とん、とん、と筬を打ちつける音が、雨の音にまじった。ヒルヴァンは、壁にもたれて目を閉じていた。眠っているのか、起きているのか、わからなかった。
僕とセルヴィーニャは、炉のそばで星盤を挟んで座っていた。
今夜は、三局打って、僕が二つ勝った。
セルヴィーニャは、盤の上の石を指先でつついて、ふくれっ面をしていた。四局目を、と言い出すかと思ったら、言わなかった。白い石を一つ指でつまんで、炉の火にかざして、くるくる回していた。
それから、石を盤に戻して、僕の顔をじっと見た。
何か言いたそうな顔だった。
◆
自分の口を指さして、それから僕の口を指さした。
「vír virán híros!」
尋の、言葉を、言って。
僕の言葉。日本語のことだ。
僕がぽかんとしているのを見て、もう一度、ゆっくり言った。それから、僕の口まねをした。
「……まじか」
僕は、吹き出しそうになった。
いつ聞いたのだろう、と考えると、思い当たる節があった。セルヴィーニャに石を取られたとき、僕は無意識に言っていたのだ。何度も。
それから、別の言葉も口まねした。
「……やばい」
これは、いつ言ったのか、覚えていなかった。たぶん、何度も言っている。
この子は得意そうに胸を張った。それから、もっと教えて、というふうに、両手を僕のほうへ差し出した。
◆
何から教えようか、と思った。
セルヴィーニャが、最初に僕に教えてくれた言葉は、何だっただろう。
水がめを指さして、ílmo só。それから、自分の胸に手を当てて、þélim selvíñan。
名前も、あの日に教えてくれた。この子は、自分が誰なのかを、僕に伝えようとしてくれた。だったら、僕も、そこから始めよう。
僕は自分の胸に手を当てた。セルヴィーニャが、あのときそうしたように。そして、一語ずつ区切って、ゆっくり言った。
「わたし の なまえ は ひろ です」
言ってから、少し驚いた。
日本語を、声に出して、誰かに向かって言ったのは、いつ以来だろう。「マジか」や「やばい」は、ひとりごとだった。心の中では、毎日、日本語で考えている。でも、こうして、誰かに聞かせるために、ひとつの文を最後まで口にしたのは、落ちてきた次の朝、ウェレラさんに「ありがとうございます」と言って以来かもしれない。
自分の声なのに、少しだけ、よその人の声みたいに聞こえた。
セルヴィーニャは、目を丸くした。
それから、唇を動かした。音を、口の中で転がしている。
僕は、もう一度言った。今度は、言葉ごとに指をさしながら。
わたし、で、自分の胸を指さした。セルヴィーニャがうなずく。
の、では少し困った。指さすものがない。僕は灰色の上着の胸をつまんで「híros」と言った。そのあと「わたしの」と言った。これで、「の」は -os であると示した、つもりだ。
なまえ、では、また困った。名前は、目に見えない。僕は炉の脇の冷えた灰にhiroと書いて、それを指さした。
セルヴィーニャの目が、ぱっと明るくなった。
「þelá?」
þélim に似ている。僕はうなずいた。たぶん、合っている。
は、では、もうどうしようもなかった。僕は、ただ手のひらを横に滑らせて、次へ、という仕草をした。
ひろ、で、自分の胸を叩いた。
です、で、両手を下に向けて、ぽんと置くような仕草をした。これで、おしまい。
セルヴィーニャは、炉の火を見つめて、しばらく黙っていた。口の中で、何度も何度も繰り返していた。
それから、背筋を伸ばして、自分の胸に手を当てた。
「わたし の なまえ は ひろ です」
一字一句、そのままだった。
僕は、思わず笑ってしまった。セルヴィーニャは、なぜ笑われたのかわからずに、むっとした顔をした。
僕は、自分を指さして「ひろ」と言った。それからセルヴィーニャを指さして、首を横に振った。あなたは、ひろじゃない。
セルヴィーニャは、ぽかんとした。
それから、少しずつ、顔に理解が広がっていった。
もう一度、自分の胸に手を当てた。今度は、ゆっくりと、一語ずつ、確かめるように。
「わたし の なまえ は selvíña です」
僕は、思わず手を叩いていた。
「じょうず!」
セルヴィーニャは、目をぱちぱちさせた。それから、自分の口を指さして、首をかしげた。今の言葉は、何。
「sáun!」
セルヴィーニャの顔が明るくなって、それから口の中で何度も言っていた。じょうず。じょうず。
機の前でフレウレラさんが、杼を持ったままこちらを見ていた。口の端が少し上がっていた。
◆
それから、セルヴィーニャは、炉の火を指さした。
何か月も前、セルヴィーニャが僕にしてくれたことだった。今度は、彼女が聞く番だった。
「これ は ひ」
僕が言うと、セルヴィーニャは、すぐに繰り返した。これ、は、ひ。それから、水がめを指さした。
「これ は みず」
これ、は、みず。
炉の火と水がめを、交互に指さした。それから、眉を寄せて、僕の顔を見た。
「ké ésa ín?」
ín は、数字の一だ。でも、何が一なのだろう。
僕が頭をひねっていると、セルヴィーニャが火を指して言った。
「elþá sé」
次に、水がめを指して言った。
「ílmo só」
そこで、sé と só のことを言っているのだとわかった。セルヴィーニャの言葉ではそれらを区別するが、日本語では同じなのか、と聞いているのだ。
僕がうなずくと、セルヴィーニャの目が、まん丸になった。
それから、慌てたように、あちこちを指さしはじめた。毛山羊の毛を膝に広げたウェレラさん。壁に立てかけた弓。戸口で欠伸をしている毛山羊。炉の石。自分の胸。そのたびに、僕の顔を見た。これも、「これ」?
僕は、一つずつ答えた。物には「これ」。人には、「このひと」。毛山羊は、少し悩んで「こいつ」にした。
セルヴィーニャは、炉の石を指さしたまま、固まっていた。
それから、小さな声で、ウェレラさんのほうへ何か言った。言いつけるような口ぶりだった。ウェレラさんは顔を上げて、灰の上を一瞥して、また毛をほぐしはじめた。
物をみんな「これ」で片づけるのは、セルヴィーニャにとって、とても変なことのように感じるのだろう。
でも、僕にとっては、逆だった。ここへ来てから、雪と氷が違う側に分かれることに、ずっと首をかしげているのだ。
僕は、なんだか可笑しくなった。セルヴィーニャも、僕の顔を見て、ふくれっ面のまま、ふっと笑った。
◆
セルヴィーニャは、満足しなかった。
炉の脇の灰を、指で平らにならしはじめた。いつも、僕に高原の字を書かせるときと同じように。それから、灰の上を指でとんとんと叩いて、僕に言った。
「pórin lísim?」
pórin が何なのかは知らなかった。でも、灰を叩く指を見れば、わかる。
どうやって、書くの。
僕は、少し考えた。
漢字で「私の名前は尋です」と書くこともできる。でも、それは、いきなり難しすぎる。セルヴィーニャが知っているのは、一つの字が一つの音を表す字だけだ。
ひらがなにしよう。
僕は、灰の上に指で書いた。
わたしのなまえはひろです
それから、一字ずつ指さして、読み上げた。
「わ。た。し。の。な。ま。え。は。ひ。ろ。で。す」
セルヴィーニャは、灰の上の字を、食い入るように見て、眉を寄せた。灰の上の「わ」を指さして、言った。
「wa?」
僕はうなずいた。
今度は自分の指で、灰の上に高原の字を二つ書いた。wa。それから、その二つの字を指さして、また「wa」と言った。そして、僕の「わ」を指さした。
ひらがなの一つ一つを、指でたどりながら、高原の字で書き直していった。わたしのなまえは……。wa、ta、si……。
灰の上に、二つの字の列が並んだ。ひらがなの短い列と、高原の字の長い列。
二つの列を見比べて、首をかしげた。それから、指を折って、何かを数えはじめた。
何を数えているのか、わかった。
ひらがなが、いくつあるのか。
高原の字は、僕が覚えたぶんだけでもう二十を超えた。全部でも、たぶん三十はない。それで、どんな言葉でも書ける。でも、ひらがなは、一つの字が子音と母音を一緒に表している。だとしたら、組み合わせの数だけ、字がいるはずだ。
セルヴィーニャが、僕を見た。いくつ、と聞いている顔だった。
「límombar.」
セルヴィーニャは目をしばたたいて、確かめるように繰り返した。
「límombar.」
límにombárをくっつけてlímombar。ドゥランドの広場で言ったréumombarと同じ作り方だ。崩れた形になるのはdáumbarくらいで、あとは素直にくっつく。
しばらくして、セルヴィーニャの口がぽかんと開いた。
それから、灰の上の「わ」を、指で恐る恐るなぞった。たった一つの字を覚えるのに、こんなに時間がかかるのに、それが五十もある。そういう顔だった。
漢字のことは、言わないでおくことにした。
◆
セルヴィーニャは気を取り直して、灰の上のひらがなを、一つずつ読む練習をはじめた。
「わ。た。し。の……」
指でたどりながら、声に出す。間違えると、僕が言い直す。合っていると、うなずく。何か月か前、雪の上でセルヴィーニャが僕にしてくれたのと、まったく同じだった。立場が逆になっただけだ。
「……な。ま。え」
そこで、セルヴィーニャの指が止まった。
次の字は、「は」だった。
その字をしばらく見ていた。それから、僕のほうを見上げて、言った。
「wa?」
さっき、僕が一字ずつ読み上げたとき、この字を「は」と読んだ。でも、文として言ったときは、「なまえ は」の「は」を、wa と言っていた。この子は、その両方を、ちゃんと聞いていたのだ。
僕は、首を振った。
「ha」
セルヴィーニャは、眉を寄せた。それから、灰の上の、いちばん最初の字を指さした。
わたし、の、「わ」。
それから、「は」を指さした。
「ké ésa ín?」
同じ音なのに、なぜ違う字なのか。
僕は、口を開いて、そのまま閉じた。
答えられなかった。
「わたしは」「なまえは」のように、何について話すかを示す「は」は、「わ」と読む。そういう決まりだ。そういうものだ、と覚えた。理由なんて、考えたこともなかった。
僕は、灰の上の「は」を指さして、言った。
「ha.」
それから、「なまえ は」のところを、指でまとめて囲んで、言った。
「……wa.」
セルヴィーニャの眉間の皺が、深くなった。
僕は、別の言葉を書いた。はな。それを指さして、「はな」と読んだ。それから、「なまえは」を指さして、「なまえ、わ」と読んだ。
二つの「は」を、交互に指さした。それから、僕を見て、言った。
「es pós?」
ドゥランドの運び人が、僕に聞いた言葉だった。es pós táises。
どこから。この字が、どこから来たのか、ということだろうか。
「……日本、から?」
思わず日本語で答えると、セルヴィーニャは、じれったそうに首を振った。それから、二つの「は」を、もう一度交互に指さして、両手のひらを上に向けて、肩をすくめてみせた。どうして、という顔だった。
es pós は、どこから、だけではないらしい。なぜ、でもあるのだ。
なぜ、ここだけ、wa なのか。
僕はしばらく考えた。
たぶん、昔は本当に ha と言っていたのだ。それが、いつのまにか wa になった。でも、字だけは、昔のまま残った。だから、書くときは「は」で、読むときは「わ」。
僕はその説明を、セルヴィーニャの言葉で言おうとした。でも、言葉が見つからなかった。昔、という言葉は聞いた。でも、音がすぐには出てこない。発音が変わって、字だけが残った、なんて、どう言えばいいのだろう。
僕が言葉のかわりに、灰の上に手を伸ばそうとしたとき、先にセルヴィーニャの手が動いた。
ひらがなの横の、まだ何も書いていない灰の上に、高原の字を書きはじめた。ゆっくりと、一つずつ、離して。
見覚えのある字の並びだった。
あの碑だ。旧道の上り口の、古い石。いちばん最初に、セルヴィーニャが僕に読んでくれた字。
彼女は、字を一つずつ指でたどりながら、読んだ。
「funelara.」
それから、もう一度、今度はふつうの言い方で読んだ。
「funelár.」
最後の a を、指でとんとんと叩いた。
書いてあるけど、読まない。
自分の書いた最後の a と、僕の書いた「は」を、交互に指さした。
それから、満面の笑みで、言った。
「ésa ín!」
書いてあるとおりには読まない字。高原の言葉にも、日本語にも、それがある。昔の読み方が、字の中にだけ残っているのかもしれない。
僕は、声を上げて笑った。
セルヴィーニャも、笑った。
何を説明しようとしていたのか、わからなくなった。同じ不思議を、この子はもう自分の言葉の中に見つけていた。僕が教えるつもりで、また、教わってしまった。
◆
炉の上手から、ウェレラさんの声がした。短く、低い声だった。もう寝なさい、という調子だった。
セルヴィーニャは、名残惜しそうに灰の上の字を見下ろしてから、手のひらで、そっと全部ならした。字はみんな灰の中に消えた。
寝床にもぐりこむ前に、振り返って、小さな声で言った。
「わたし の なまえ は セルヴィーニャ です」
それから、毛皮を頭までかぶった。
雨の音が、まだ続いていた。
僕は、熾の赤い光を見ながら、灰の上に消えた字のことを考えていた。
崖の上にも、ずっと遠くの僕の国にも、書いてあるとおりに読まない字がある。
どこの言葉も、そうやって、昔を少しだけ抱えたまま、今を話しているのかもしれない。
◆
次の朝、雨は上がっていた。
戸口を開けると、刈り入れの終わった畑の上に、薄い霧が低く漂っていた。霧の上には、洗ったような青い空があった。軒から、最後の雫が一つ、ぽたりと落ちた。
僕は桶を二つ持って、井戸へ向かった。セルヴィーニャが、後ろからついてきた。
井戸端には、近所の女たちが何人か来ていた。僕は、桶を下ろして、頭を下げた。
「aurénde selvá!」
女たちが、口々に返した。an ilánais。いちばん年かさの女が、僕の顔を見て、何か短く言った。ていねいな挨拶をする、とか、そういうことを言ったのだと思う。ほかの女たちが笑った。悪い笑い方ではなかった。
桶に水を汲んで、振り返ると、セルヴィーニャが井戸の縁にもたれて、僕を見ていた。
にやっと笑って、小さな声で、僕にだけ聞こえるように言った。
「じょうず」
僕は、桶を落としそうになった。
セルヴィーニャは、すまし顔で自分の桶を持ち上げて、先に歩きだした。編んだ髪が、背中で揺れていた。
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