小説
左の目次から話を選んでください。
雨季の終わりの夜は、虫の声がした。
雨はもう、夕方に少し降るだけになっていた。夜になると雲が切れて、濡れた石垣の隙間から、細い虫の声がりりりと鳴った。戸口を少し開けておくと、湿った土と、刈り入れの済んだ畑の、乾きかけた藁の匂いが入ってきた。
炉の火のそばで、セルヴィーニャが灰をならしていた。
毎晩のことだった。セルヴィーニャが灰に字を書いて、僕が読む。読めたら、セルヴィーニャが次の字を書く。読めなかったら、灰をならして、もう一度書く。
でも、その夜は、字の稽古はすぐに終わった。
帳場で働き始めて、初めて町へ戻った夜だった。
セルヴィーニャは、ウェレルから帳場での話を聞いていた。帳場の帳面の誤りを、僕が見つけたこと。九十の違い。老人の数え盤より、僕のほうが速かったこと。ウェレルは、身振りつきで、何度も話した。話すたびに、数が少しずつ大きくなっていった。
セルヴィーニャは、灰の上に、高原の数字を一つ書いて、それから棒を置いた。
僕の顔を、じっと見た。
「pórin ráines rimbáis bróusais, híro?」
いつか、聞かれると思っていた。
◆
どう言えばいいのか、わからなかった。
学校で習った。それだけのことなのに、言えない。学校、という言葉も、習う、という言葉も、僕はまだ知らなかった。
まず、習う、からだ。
僕は灰の上に字を一つ書いて、指でなぞった。それから、セルヴィーニャの書いた字を指さして、読むまねをした。最後に、指を折って数を数えてみせた。
「lísim lisáis. vóilim lisáis. rímbim rimbáis……」
それから、両手を広げて、それを全部まとめるような仕草をした。
「pó éso?」
セルヴィーニャは首をかしげた。僕はもう一度、灰の上の字と、セルヴィーニャの顔と、自分の胸を、順番に指さした。毎晩、ここでしていること。セルヴィーニャが書いて、僕が読むこと。
セルヴィーニャの顔が、ぱっと明るくなった。
「klóimes!」
それから、自分の胸を指さして、胸を張った。
「ésim rainiþár táses!」
klóimes。-es は「あなたが」だ。あなたが、何かをする。毎晩ここで僕がしていることを、klóim と呼んだ。習う、とか、学ぶ、とか、そういうことだろう。
rainiþár のほうは、セルヴィーニャ自身のことだった。ráin は、知る。その後ろに -íþ- がついている。dulíþa が「下りさせる」で「下ろす」なら、rainíþ は「知らせる」。教える、だ。そこに、funelár と同じ -ár。教える係。
先生だ。得意そうな顔からすると、たぶん間違いない。
僕は灰の上に、大きな四角を描いた。その中に、小さな丸をたくさん。四角を指さして、丸を指さして、それから、さっき覚えたばかりの言葉を言った。
「klóiman endríñai. pó éso?」
四角のほうを、とんとんと叩いた。
セルヴィーニャは、四角と丸をしばらく見ていた。それから、ゆっくり言った。
「kloimándo.」
klóim の後ろに、-ándo。
dulándo と同じ終わり方だった。dúl は下りる。ドゥランドは、下りるところ。だとしたら、kloimándo は、習うところ。学校だ。
それで、やっと言えた。
「klóimim un kloimándoi.」
セルヴィーニャが、目を丸くした。
「ké éses endríña lisáres?」
lisáres。lís- は書く。-ár がつけば、書く係。書記の、ということだろう。
この子にとって、学び舎に通う子といえば、書記の家の子なのだろう。
僕は、首を振った。炉の灰の、セルヴィーニャがならしたところに、指で四角を描いた。それから、四角の中に、小さな丸をたくさん描いた。
「un bóraloi, sán endríñai fáirombar. ésa rainiþár ín. ínin órel, klóiman lisáis si rimbáis.」
セルヴィーニャは、灰の上の丸を、指で数えはじめた。途中でやめた。四十も描いていなかった。
「ínin órel? ómbra endríñai?」
「ómbra.」
セルヴィーニャの指が、止まった。
しばらく、何か考えていた。それから、慎重に、一語ずつ聞いた。
「silóur endríñai faronárar?」
「éun.」
セルヴィーニャは、炉の向こうで眠っているウェレルを見た。運び人。それから、灰の上の、子どもたちを表す丸を見た。
◆
「un funelóroi, ráino lisáis hóum ín.」
自分の胸を指さした。
「dórvar.」
この町で、字を読み書きできるのは、うちの炉だけなのだという。dórvar は、ただの「うち」ではなく、この家の呼び名なのかもしれない。綱の係の家だからだろうか。綱で上げ下ろしする荷の、荷札を読むために、昔から子どもに字を教えてきたのかもしれない。旧道がなくなって、荷が来なくなっても、その習いだけが残った。
だから、この子は字が読める。ウェレラさんに教わった。ウェレラさんは、そのまた母さんに。
ほかの炉の子は、字を知らないのだろう。倉の老人も、数え盤の石は動かせるけれど、字は読めないのだろう。井戸端の女の人たちも、たぶん。
灰の上の丸を、一つずつ指でなぞった。
「ké sán þrénul téndoi?」
þrénul は、知らない言葉だった。
自分の上着の襟をつまんで、何枚も重ねるような手つきをした。それから、手のひらを高く上げて、低く下げた。上と、下。いつかウェレルが、黄色い上着の役人のまねをしたときと、同じ手つきだった。
上着を何枚も重ねた人と、そうでない人。上と、下。そういうものが、僕の国にもあるのか、と聞いているらしい。
「nés. na sán þrénul.」
聞いたばかりの言葉を、そのまま返した。
セルヴィーニャは、目を丸くした。それから、声を出して笑った。
「lúdro!」
嘘だと思ったらしい。
僕は、首を振った。本当に、ない。偉い人はいる。お金持ちもいる。でも、上着の色で、どこに座るかが決まったりはしない。子どもは、みんな、同じ部屋で、同じ字を習う。
言えたのは、そのうちの、ほんの少しだった。残りは、身振りと、灰の上の絵で伝えた。どこまで伝わったのかは、わからない。
彼女は、笑うのをやめて、長いあいだ黙っていた。
◆
それから、別のことを聞いた。
「ké sán anlóurai táses téndoi?」
僕は、うなずいた。
母さんの顔が浮かんだ。台所で、何か言いながら振り返る顔。父さんは、たぶん、居間で新聞を広げている。夕方の六時。テレビの音。
あれから、どれくらいたったのだろう。向こうでは、僕は、どういうことになっているのだろう。
そこまで考えて、喉の奥が詰まった。灰の上の丸を、見ていられなくなった。
セルヴィーニャは、それ以上、聞かなかった。
黙って、灰をならした。それから、灰の上に、高原の字で、短い言葉を一つ書いた。
nemor silóur
私たちも。
それから、その横に、もう一つ。
esimor sendoi
ここにいる。
僕は、その字を見つめていた。
炉のそばで、ヒルヴァンが弓の弦を張り替えていた。フレウレラさんは、機の前で杼を走らせていた。ウェレラさんは、炉の向こうで目を閉じて、眠っているのか起きているのかわからなかった。ウェレルの寝息が聞こえた。
私たち。
その「私たち」に、僕が入っているのかどうか、セルヴィーニャは書かなかった。でも、書かなくてもわかるように書いてあった。
彼女は、何も言わなかった。灰の上の字を、すぐに手のひらでならして、消してしまった。
消えたあとも、僕はしばらく、灰の上を見ていた。
◆
しばらくして、セルヴィーニャが、ぽつりと言った。
「rainiþéim endríñail lisáis, ném silóur.」
教える。子どもたちに。字を。わたしも。
セルヴィーニャは、さっき、子どもたちの丸を描いた場所を見ていた。
それから、急に恥ずかしくなったのか、棒を拾って、僕の額を軽く叩いた。
「vóil.」
灰の上に、新しい字が書いてあった。
字の稽古の続きだった。
虫の声が、戸口の外で、まだりりりと鳴っていた。
左の一覧から語を選ぶか、上の検索欄に日本語またはローマ字を入れてください。
左の目次から課を選んでください。
左の一覧から選んでください。
高原語で書かれた読み物です。左の一覧から選んでください。
左の目次から話を選んでください。
小説・世界設定・翻訳から見つけた「辞書にない語」の候補です(uv run conlang dict-grow 名前 で作られます)。登録する語を選んでください。同義語として複数選べます。