第14.5話 北の高みで

夜明け前の空は、まだ水の底みたいな青をしていた。

戸口の前に、家族が並んでいた。おばあちゃんが、わたしの両手を包んで、旅立つ子に唱える古い言葉を、ひとつずつ置くように唱えた。父さんは、わたしの背中の荷の紐を、黙って締め直した。締め直さなくても、ちゃんと締まっていたのに。兄さんは、わたしの頭をぐしゃぐしゃにかき回して、脛を蹴られた。

最後に、ヒロが、わたしの前に立った。

ヒロは、何か言おうとして、考えていた。ヒロはいつもそうだ。言葉を、炉の灰の中から一つずつ拾い上げるみたいに、ゆっくり探す。探しているあいだ、眉の間に、困ったような皺が寄る。

崖を下りていく人なら、軽く下りよ※1崖道を下りていく人に送る別れの言葉。崖から落ちる、つまり「重く下りる」ことをいちばん恐れるので、歩いて軽く下りるように願う。、と送る。でも、わたしは上へ行く。北の高み※2高原の北の、雪の消えない峰の続く山地。天にいちばん近く、成人の儀や王家の聖地がある。の、天にいちばん近いところへ、詩を捧げに行く。

ヒロは、それを考えていたのだ。

それから、ヒロは頭を下げて、言った。

「息が、昇りますように」

改まった挨拶だった。目上の人にも、遠くへ行く人にも使う、いちばん丁寧な言葉。ヒロの口から出ると、わたしたちの言葉は、少しだけ角が立って聞こえる。言葉の一つ一つを、両手で持ち上げて、そっと置くみたいな言い方をするから。

喉の奥が、きゅっと狭くなった。

返さなければいけない。星々へ、と返すのが決まりだ。

わたしは、笑った。笑えば、喉の奥の狭いのが、ごまかせる気がした。

「星々へ」

それだけ言って、背中を向けた。母さんと並んで、霜の白い道を北へ歩きだした。

振り返らなかった。

振り返ったら、目の端が濡れているのを、あいつに見られる。

◆

白糸川※3高原の日の入り側を流れる川。夕の湖から流れ出て、縁から細く長い一筋の滝になって崖を落ちる。旧道はこの滝のわきを下りた。をさかのぼる道は、朝のうちは凍っていた。

岸の石という石が、白い霜の毛皮を着ていた。川は、その下を、細い声で鳴きながら流れていた。日が昇ると、霜は一つずつ溶けて、石の肌が黒く濡れて光った。湯気のような靄が、川の面から立ちのぼって、すぐに消えた。

母さんは、ほとんど口をきかなかった。

母さんは、いつもそうだ。おばあちゃんは、決まりを声に出して守る。父さんは、黙って何かを縫って守る。母さんは、黙って見ている。見ていて、いちばん肝心なときに、黙って何かを隠したり、黙って何かを着せたりする。

ヒロの、あの見たこともない布の上着を、箱の底に沈めたのも、母さんだった。

一日目の夜、夕の湖※4湖盆に鎖のように並ぶ湖の、日の入り側の端にある浅く小さな湖。白糸川はここから流れ出る。の手前の、羊飼いの小屋に泊めてもらった。羊飼いのおかみさんが、乳を温めてくれた。小屋の中は、羊の匂いと、乾いた草の匂いと、炉の煙の匂いでいっぱいだった。

炉の火を見ながら、母さんが、ふいに言った。

「ヒロは、外ではまだ『そこの』なの?」

わたしは、乳の椀を両手で包んだまま、火を見ていた。

「……うん」

ヒロが落ちてきた、次の日の夜。井戸端で、ヒロは、わたしを子どもの名前で呼んだ。おばあちゃんが呼ぶのを、そのまま真似して。井戸のまわりの女の人たちが、いっせいに笑った。よそから来た若い男が、人前で、もうすぐ大人になる娘を、子どもの名前で呼んだのだ。顔から火が出そうだった。わたしは桶を抱えて、ヒロを置いて、走って帰った。

それから何日かたった朝、井戸へ行く道で、ヒロは考えに考えた顔で、わたしを呼んだ。名乗るときの形のまま。「セルヴィーニャを!」と呼ばれたようなものだった。

わたしは雪の上に尻もちをつくほど笑った。ヒロは雪の中に突っ立って、わたしが笑いやむのを待っていた。

それから、ヒロは「そこの」と呼ぶようになった。家の中でまで。

「そこの、これは何」「そこの、待って」

母さんが布を背負って帰ってきた日に、母さんの前で、そう呼ばれた。母さんはお腹を抱えて笑った。だからわたしは、ヒロの前に立って、決めてやったのだ。家の中では、わたしの名前。外では、そこの。

おばあちゃんにも、父さんにも、聞かなかった。わたしが、決めた。

家の中で子どもの名前を呼ぶのは、家族だけだ。

ヒロは、それきり、その決まりを一度も破らなかった。家の中では、あの硬い言い方で、ていねいにわたしの名前を呼ぶ。戸口を一歩出ると、「そこの」になる。

「外で、そこの、って呼ばれるの、どう?」

母さんは、火の中の薪を、棒で少しだけ動かした。火の粉が、一つ、煙穴のほうへ昇っていった。

わたしは、少し考えた。

わたしたちの言葉には、「そこの」が二つある。人や、息や、火みたいな、上へ昇っていくものを指す「そこの」。それから、石や、水や、荷みたいな、下へ沈んでいくものを指す「そこの」。人を、下へ沈むほうで指せば、ひどい悪口になる。物扱いだ。

ヒロは、一度も、沈むほうで呼んだことがない。

来たばかりで、まだ何もわかっていなかったころから、ずっと。

「……悪くは、ない」

わたしが言うと、母さんは、炉の火のほうを向いたまま、口の端を少しだけ上げた。

母さんは、それ以上、何も聞かなかった。

◆

二日目に、夕の湖を回った。

湖は、空をそのまま写していた。風が吹くたびに、水の面に細かい皺が寄って、写った空が千切れて光った。湖のほとりに、白い石英の石が、点々と並べてあった。社※5祖先や星を祀る建物、またはその場所。香の木で建て、境に白い石英の石を置く。言葉や煙が上へ昇っていく所とされる。の境のしるしだ。そこから先は、上の土地になる。

わたしは、石英の石の前で、立ち止まった。

白くて、半分透きとおっていて、日の光を中に閉じこめているみたいだった。手を伸ばしかけて、やめた。上の土地のしるしに、縁※6高原の南の端で、干潟へ千メートル近く切れ落ちる崖。崖そのものと、崖のすぐ上の台地を指す。の子の手が触れていいのか、わからなかった。

三日目は、湖盆※7高原の中ほどにある、東西に長い窪地。大小の湖が並び、段々畑で雑穀を作り、毛山羊を飼う。都もここの大湖のほとりにある。の段々畑の村に泊まった。四日目の夕方、北の高みの麓の村に着いた。

峰が、すぐそこにあった。黒い岩の肌に、白い雪が、筋になって残っていた。一年じゅう消えない雪だと、母さんが言った。夕日が、その雪を、内側から灯したみたいに赤く染めていた。

あそこが、天にいちばん近いところ。わたしたちの祖先が、星になって昇っていった、その足もと。

◆

麓の村の、北の高みへ上る子のための小屋には、先に三人の子が来ていた。

湖の都の商人の家の男の子。メウル※8都から歩いて半日の、湖のほとりの市の町メウルヴェイノルのくだけた呼び名。毛山羊の毛や毛織物の市で知られ、湖盆の人はふだんの買い物をここでする。の機織りの家の女の子。

それから、もう一人。

上着を四枚、重ねていた。緑と、黄と、茶と、それからいちばん上に、淡い紫。髪を、頭の上に、塔みたいに高く結い上げていた。髪が高いほど、段が高い。紫を許されるのは、二段下りまでの家だけだ。都の、そういう家の子だ。

その子は、わたしの一枚きりの毛織りの上着を見た。それから、肩の下でただ一つに束ねただけの、わたしの髪を見た。縁の子は、髪を結い上げたりしない。結い上げる高さがないから。

その子は、何も言わなかった。

ただ、わたしの横を通るとき、上着の裾を、わたしに触れないように、指でつまんで持ち上げた。

わたしは、頬が熱くなるのがわかった。

その夜、小屋の隅で、膝を抱えて眠った。母さんが、黙って、自分の上着をわたしの肩にかけた。

◆

五日目、夜明けのずっと前に、峰を上った。

ここから社へ上るのは、儀式を受ける子どもたちだけだ。母さんたち大人は、峰の中ほどの岩屋※9北の高みの峰の中ほどにある岩屋。成人の儀で一人で社へ上る子を、大人たちがここで待ち、下りてきた子を迎える。で待つ。

星の光だけを頼りに、岩の道を上った。息が、すぐに白くなった。それから、息が足りなくなった。胸いっぱいに吸っても、吸ったそばから空気がどこかへ逃げていく。天に近いところは、息が薄い。昇っていく息の、行き着く先だからだと、おばあちゃんが言っていた。

前を、都の子が上っていた。

高く結った髪が、星空を背にして、黒い影になっていた。その影が、だんだん、ぐらぐらと揺れはじめた。

岩の段の一つで、都の子が膝をついた。

息が、ひゅう、ひゅう、と鳴っていた。重ねた四枚の上着が、ひどく重そうに見えた。上着の重さは、段の重さだ。都の子は、それを全部背負って、この薄い空気の中を上ってきたのだ。

わたしは、立ち止まった。

少し迷った。

それから、手を差し出した。

都の子は、わたしの手を見た。泥と灰で荒れ、寒さにひび割れた、縁の子の手を。

それから、黙って、その手を取った。

冷たい手だった。わたしと同じくらい。

そこから頂の手前まで、わたしたちは、一言も話さずに、手をつないで上った。天に近いところでは、段の高さも、髪の高さも、息の足りなさの前では、たいして変わらなかった。

◆

頂の手前の、平らな岩の上に、社があった。

香の木※10赤い樹皮をもつ、香りの強い木。社や納骨所の建材にし、焚いて香にも使う。で組んだ、赤い、小さな社だった。風が、社の軒の下で、笛のような音を立てていた。社の前で、星読み※11星の司に仕え、星の位置や流れ星から吉凶を読み、暦と祭りを受け持つ役人。四段下りに置かれる。の年寄りが一人、火を守っていた。

東の空の、いちばん低いところが、薄く白くなりはじめていた。

順番が来た。

わたしは、懐から紙を出した。

灰の上で、何十回も書いて、何十回も消した詩だった。炉の向こうで、ヒロが首をかしげて、それ何、と聞いた詩。見せて、と言われて、見せなかった詩。

紙を広げて、声に出して読んだ。

一行目で、風が来た。

声が、ちぎれた。自分の口から出たはずの声が、風に引きはがされて、後ろの谷へ飛んでいった。何を言ったのか、自分にも聞こえなかった。

喉が、震えた。

星読みの年寄りは、何も言わなかった。火を守ったまま、わたしを待っていた。

わたしは、紙を胸に押し当てた。息を吸った。薄い空気を、何度も、何度も。

それから、もう一度、最初から読んだ。

今度は、風に向かって、読んだ。風に負けないように、ではなく、風に乗せるように。わたしの声を、風が上へ運んでいくように。

最後の一行を読み終えたとき、東の峰の端から、最初の光が射した。

◆

何を詠んだのかは、誰にも言わない。祖先に捧げた詩を、儀式の外で人に聞かせることはしない。

ただ、わたしだけは、覚えている。

凍りの頃※12乾風期の後半。霜が降り、湖も川も凍る、一年でいちばん寒い時期。綱が凍るので、崖から硬木を下ろすのも止まる。日本の冬にあたるが、高原の人は「冬」という季節を立てない。の夜に、星が、一つ、落ちてきたこと。

その星が、崖の途中で、止まったこと。

そこから先は、わたしの胸の中にだけ、しまっておく。

星読みの年寄りが、わたしの手から紙を受け取って、火にくべた。紙は、端から黒く縮んで、ぱっと明るく燃えた。煙が、風にほどかれながら、明けていく空へ昇っていった。

わたしの詩が、昇っていった。

◆

星読みの年寄りが、わたしを見た。

「名は」

大人の名前を、自分で言うのだ。祖先の前で。一度言ったら、もう変えられない。

ここまで来る四日のあいだ、ずっと考えてきた。

おばあちゃんは、ウェレラ。風の名前。母さんは、フレウレラ。雲の名前。どちらも、古い言葉から取った、きれいな名前だ。まったく新しい名前にする子もいる。都の子は、たぶん、もう決めてきている。

わたしの子どもの名前は、セルヴィーニャ。小さな、息。

大人になれば、子どもの名前は捨てる。

捨てなければいけない、と思っていた。

でも、口を開いたとき、頭に浮かんだのは、新しい名前ではなかった。

年の始まりの朝の、白い息だった。

十の灯※13年の始まりの明け方、東の空に初めて見える星の群れ。「十」は数ではなく名前の一部。が昇る前の暗がりで、おばあちゃんが、ヒロに教えていた。息は、星々へ昇る。ヒロは、自分の吐いた白い息が、ほどけて、昇っていって、消えるのを、ずっと見上げていた。見たこともないくらい、静かな顔で。

小さな息、ではなく。

昇っていく、息。

「……セルヴェラ」

声が、少しかすれた。

星読みの年寄りが、うなずいた。それから、わたしの名前を、朝の空に向かって、大きな声で唱えた。

セルヴェラ。

今度は、風が、ちぎらなかった。わたしの名前を、そのまま、上へ運んでいった。

◆

峰を下りる途中の岩屋で、母さんが立ち上がった。

わたしは、母さんの前に立って、胸に手を当てた。

「セルヴェラと、名乗ります」

母さんは、何も言わなかった。

黙って、自分の腰の帯を解いた。空を薄く溶かしたような、淡い青の帯だった。母さんが、母さんの母さんから、北の高みを下りてきた日にもらった帯だと、あとで聞いた。

母さんは、その帯を、わたしの腰に締めた。

結び目を、二度、指で確かめた。

去年の雨期※14霧期のあとの、白月四回ほどの季節。南の風が崖を越えて雲になり、静かな雨が毎日降る。雨期の初めに雑穀を播き、終わりに刈る。のなかば、ヒロをドゥランド※15縁の肩の中ほどにある、今の崖道の町。崖道の上り口と降ろし場があり、崖道の商人や運び人が崖を下りる前に泊まる。へ送り出す朝に、ヒロの肩掛けの紐を結んだときと、同じ手つきだった。

岩屋の外で、都の子が、自分の母親の前で、名乗っているのが聞こえた。知らない、長い名前だった。それから、都の子がこちらを見て、ほんの少しだけ、頭を下げた。

わたしも、頭を下げた。

◆

その日は麓の村でもう一晩休んで、次の朝、帰りの道についた。帰りは、五日かかった。

足は重かった。胸の中だけが、ふわりと軽かった。

夕の湖のほとりで、白い石英の石の前を通ったとき、わたしは、手を伸ばして、その石に触れた。

冷たかった。それから、少しずつ、手のひらの熱で温まった。

歩きながら、何度も、口の中で練習した。

セルヴェラと、名乗ります。

家に着いたら、ヒロに名乗る。最初に会った朝と、同じように。胸に手を当てて。

大人の名前なら、呼んでいい。家族でなくても。人前でも。

ヒロは、呼ぶだろうか。

それとも、まだ、「そこの」と呼ぶだろうか。

五日目の夕方、縁の肩※16縁の崖のすぐ上に広がる、幅数里の石だらけの台地。風が強く、地面は苔と割れた岩に覆われる。崖道の上り口や降ろし場、旧道の町がある。の石の原の向こうに、町の大きな倉の屋根が見えた。

夕日が、霜の溶けた道を、あかがね色に染めていた。家の戸口に、人影が見えた。背の高い影が、こちらへ歩いてくる。父さんだ。父さんは、きっと、母さんの荷を黙って受け取る。

戸口には、もう一つ、影が残っていた。

わたしは、母さんを置いて、駆けだした。

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