第13.5話 同じ

夜明け前の崖の縁※1高原の南の端で、干潟へ千メートル近く切れ落ちる崖。崖そのものと、崖のすぐ上の台地を指す。は、音がない。

風がやむ。崖の下から這い上がってくる湿った風と、北の高み※2高原の北の、雪の消えない峰の続く山地。天にいちばん近く、成人の儀や王家の聖地がある。から下りてくる乾いた風が、ちょうど釣り合って、どちらも動かなくなる。そのわずかなあいだだけ、縁の肩※3縁の崖のすぐ上に広がる、幅数里の石だらけの台地。風が強く、地面は苔と割れた岩に覆われる。崖道の上り口や降ろし場、旧道の町がある。の石の原は、息を止めたように静まり返る。

俺は岩陰に腹ばいになって、その静けさの中にいた。

弓は脇に置いてある。矢は三本。指先が冷えないように、拳を脇の下に挟んでいた。澄みの頃※4乾風期の前半。空がいちばん澄み、星がよく見える。縁の市が開き、崖から硬木を下ろす忙しい季節。も深くなって、夜明けの石は氷のように冷たい。吐く息を、手のひらで覆って散らした。崖山羊※5縁の崖や北の岩山にすむ野生の山羊。足場のない崖を渡り歩くので、崖道の運び人の守り神とされる。狩人が崖の縁で待ち伏せて射る。は、白い息を見る。

東の空の、いちばん低いところが、薄く青くなりはじめていた。

崖山羊は、日の出の少し前に、崖の途中の棚から縁へ上がってくる。夜のあいだ崖の割れ目に身を寄せていた群れが、縁の苔を食みに来るのだ。上がってくる道は、毎年同じだ。俺の親父も、その親父も、この岩陰で待った。

待つのは、得意だ。

◆

あの日も、崖山羊を追っていた。

あの凍りの頃※6乾風期の後半。霜が降り、湖も川も凍る、一年でいちばん寒い時期。綱が凍るので、崖から硬木を下ろすのも止まる。日本の冬にあたるが、高原の人は「冬」という季節を立てない。。日がだいぶ傾いて、崖の影が棚を半分覆ったころだった。群れが、縁から崖の途中へ下りていくのを、俺は上から見ていた。いちばん上の棚、グリュノーラ※7旧道の五つの岩棚のうち、いちばん上の棚。崖の縁から綱で荷を下ろした先で、尋が落ちてきた所。上下の道が崩れて、棚だけが取り残されている。の脇を、群れが一列になって渡っていく。そのとき、棚の上で、何かが動いた。

人だった。

膝を抱えて、岩に背中を押しつけて座っていた。見たこともない色の上着を着ていた。黒に近い紺。毛皮でも毛織りでもない、つるりとした布。足には、白い、妙にふくらんだ履き物。

棚に人がいるはずがない。旧道※8今の崖道ができる前、白糸川の滝のわきの岩棚づたいに崖を下りた道。約四百年前に下の二つの岩棚が崩れ、使われなくなった。は四百年前に崩れた。上から綱で下りる者もいない。下から上ってくる道は、もうない。

だから、あれは落ちてきたのだと思った。

俺は崖の縁から声を張った。

「おーい。そこの者」

あいつは顔を上げた。俺を見て、飛び上がるように立って、両手を振りながら何か叫んだ。知らない言葉だった。ダーロル※9崖の下の干潟の国(dálor「下の国」)。泥の原に杭を打って暮らす人々の土地で、潮で日を数え、十二で数える。高原の人は下の国を低く見て、名もあまり口にしない。の言葉でもない。ダーロルの縁商人※10干潟に生まれ育ち、高原語を話して読み書きし、縁の市で両方の取引を仲立ちする商人。の言葉なら、市で何度も聞いたことがある。あれは、もっと平べったくて、尻上がりの、聞いたことのない響きだった。

「お前は誰だ」

あいつはまた叫んだ。同じ響きだった。

俺は棚を端から端まで見た。崩れた段。それから、壁に打ちこまれた、緑に錆びた輪。

あの輪のことは、子どものころに母から聞いて知っていた。綱場※11尋のいる町の、崖の縁にある綱の巻き胴と腕木。昔は荷を一つ目の岩棚まで下ろした。から下ろした荷を、グリュノーラで受け止めた留め具だ。綱場の綱は、あの棚までなら届く。何百年も、誰も確かめたことはないが、届くはずだった。

俺は手のひらを見せて、待て、と言った。戻ってくる、と言った。それから町まで走った。

走りながら、考えていた。

落ちてきた者は、不吉だ。下へ引かれたものが、崖の途中で止まっている。町の者は、そう言うだろう。母は、どう言うか。

母は、何も聞かずに、倉の老人と、手の空いている男たちを呼び集めた。綱場の腕木は灰色に乾いて、車輪の軸は錆びついていた。日の暮れるまでかかって、軸に脂をさし、倉の奥から古い綱を引き出し、継ぎ目を一つずつ確かめた。誰も、口では文句を言わなかった。町じゅうが、綱場のまわりに集まってきた。

松明をつけて、腕木を崖の外へ押し出した。綱を下ろした。

「綱をつかめ」

あいつは綱を見て、俺を見た。それから、綱をつかんだ。

「落ちるな」

巻き胴の棒を、男たちが声を合わせて押した。引き上げた体は、思っていたより軽かった。十五か、十六か。ウェレルより、ずっと細い。崖の縁に転がり出たあいつは、四つん這いのまま、地面の石にしがみついて、長いあいだ震えていた。

俺は綱を巻きながら、その背中を見ていた。

あのとき、綱を下ろさなければよかったと、思わなかったと言えば嘘になる。

◆

東の空が、白くなってきた。

崖の下の棚から、小石の転がる音がした。かすかに、ひづめが岩を蹴る音。俺は息を止めて、弓に手を伸ばした。

音は、そこで止んだ。

群れは、まだ上がってこない。用心深い年寄りの雌が、先頭で鼻を上げて、風を嗅いでいるのだろう。

俺は弓から手を離した。待つのは、得意だ。

◆

あの凍りの頃は、長かった。

母は、寄り合い※12町の大人が集まって、雑穀の分け方や道の手入れなど、町の暮らしのことを決める集まり。尋のいる町では、いちばん大きな倉で開く。で町の者を前に、うちの炉※13家の中心の炉から転じて、ひとつの世帯、ひとつの家族を指す。町の人は人ではなく炉で数え、「綱番の炉」「倉の炉」のように家の呼び名にもなる。があいつに粥を食わせると言い切った。綱にかけたものを途中で放すのは、綱番※14綱場の綱を預かる家(ドルヴァルの炉)。綱にかけて上げたものは、綱番が預かる決まりがある。の恥だ、と。

母は正しい。正しいが、鍋の底は、一人ぶん早く見えた。

あいつの椀に、母はいちばん多くよそった。母の椀が、いちばん少なかった。俺は何も言わなかった。言えば、母は決まりを言う。決まりを言われれば、俺は黙るしかない。

かわりに、あいつに冷たくした。

あいつが雪の上に、妙な絵を描いたことがある。綱場の車輪に、もう一つ車輪を足した絵だった。綱を二重にかけて、片方の車輪が荷と一緒に上がる。あいつは身振りで、引く力が半分になる、というようなことを言おうとしていた。

俺は、それを踏み消した。

絵が間違っていたからではない。ドゥランド※15縁の肩の中ほどにある、今の崖道の町。崖道の上り口と降ろし場があり、崖道の商人や運び人が崖を下りる前に泊まる。の降ろし場※16崖の縁に腕木と巻き胴をすえて、硬木を綱で崖の下へ吊り下ろす所。ドゥランドにある。には、同じ仕掛けがもうある。だが、あれを町の綱場につけるには、車輪を鋳る銅が要る。銅を買う雑穀※17高原の主食の穀物。粥にして食べる。税も手当も雑穀で払う。は、町の寄り合いにも、うちにもない。うちは、あいつの粥の分で、もう足りないのだ。

そう言ってやれる言葉を、あいつはまだ持っていなかった。だから、踏み消した。それしかなかったと、あのときは思った。

帰り道、俺は一度だけ振り返った。踏み消した雪の上に、車輪の端が少しだけ残っていた。

◆

霧期※18凍りの頃のあとの、白月一回ほどの季節。崖の下の湿った空気が這い上がってきて、濃い霧が地面をふさぐ。霧の中では名前を呼んではいけない。病の多い季節でもある。に入ってすぐ、あいつの足を測った。

白いふくらんだ履き物は、目立ちすぎる。町の者に見られるのはかまわない。もう見られている。だが、いつか目付※19役所から町々へ見回りに来る役人。人や荷を「検める」。が来る。目付に見られたら、あの履き物は、この国のどこの機でも、どこの靴屋でも作れないものだと、すぐにわかる。

毛皮を裁って、夜ごとに縫った。

口では何も言わなかった。言えば、あいつは礼を言う。礼を言われるのは、好きではない。

片方ができたところで、目付が来た。

霧が明けて、雨期※20霧期のあとの、白月四回ほどの季節。南の風が崖を越えて雲になり、静かな雨が毎日降る。雨期の初めに雑穀を播き、終わりに刈る。の雨が降りはじめた二日目だった。目付は、井戸の前であいつを頭のてっぺんから足の先まで眺めた。あの白い履き物を。俺の縫いかけの毛皮は、炉のそばの箱の中で、片方だけ、間に合わなかった。

目付が帰った次の朝、俺はできあがった履き物を、黙ってあいつの寝床の足もとに置いた。

間に合わなかったものを渡すのは、みっともない。だから、黙って置いた。

◆

ドゥランドの小屋で、あいつは荷として書かれた。

o※21高原語では、動詞の語尾が主語の重さで変わる。軽いもの(人や息)は -a、重いもの(物や荷)は -o で受ける。人を -o で受けたり書いたりするのは、物として扱うことで、ひどい侮辱になる。 で書かれた。人ではなく、物として。書記※22字を書き、帳簿や記録をつける役人。書の司の学び舎で育てられ、身分は四段下り。目上なので、下の者は名で呼ばずに「書記の方」と言う。は、俺の目の前で、紙の上のあいつを、綱にかけて上げた荷と同じ欄に入れた。

あの夜、ドゥランドの宿で、あいつは眠らなかった。寝床の上で、ずっと天井を見ていた。

俺も眠らなかった。目を閉じ、寝息だけを立てていた。あいつは、俺が眠ったと思っただろう。

自分が綱を下ろしたせいで、あいつは荷になったのだ。崖の途中に置いておけば、少なくとも、荷にはならなかった。代わりに、死んでいた。どちらがましなのか、俺にはわからなかった。

◆

東の空に、赤みがさしてきた。

縁の肩の石という石が、東側だけ、うっすらと色づいた。苔の上の霜が、そこだけ溶けて、黒っぽく濡れて光った。

俺は、岩の影を見た。

夜明けの影は、長い。日が昇るにつれて、短くなる。昼に、いちばん短くなる。それから、また長くなって、日暮れに崖の外の空まで伸びる。影の長さで、日が沈むまでの時を読む。狩人なら、誰でもできる。

あいつが影を見て時を読んでいるところは、見たことがない。あいつの国では、どうやって時を読んでいたのだろう。

あいつのことを、俺はまだ、ほとんど何も知らない。

◆

雨期の初めの夜、山羊が子を産んだ。

難産だった。俺はあいつを起こして、灯を持たせた。高く持て、と身振りで言った。あの頃のあいつは、まだ家の話も半分しかわからなかった。

あいつは、灯を高く持ったまま、長いあいだ立っていた。

腕が震えているのが、灯の揺れでわかった。それでも、下ろさなかった。俺が「もういい」と言うまで、下ろさないつもりだったのだろう。俺は、言わなかった。言う暇がなかった。

夜明け近くに、子山羊が出てきた。

拭いて、あいつの腕に抱かせた。あいつは、子山羊を抱いたまま、ぽかんとして俺を見た。それから、何か言った。あいつの国の言葉だった。

意味はわからなかった。だが、声の調子でわかった。

あれは、礼ではなかった。驚いたときの声だった。生まれたばかりの温かいものを抱いて、驚いている声だった。

俺は、礼を言われるよりは、そのほうがよかった。

◆

ウェレルがあいつをドゥランドへ連れていったのは、それからふた月ほどしてからだった。

十日ごとに帰ってくるたびに、あいつの手は硬くなっていた。背負い枠の縄の跡が、手のひらに茶色いたこになって残った。額の帯の跡が、日に焼けずに白く残った。

言葉も、増えていた。

帰ってくるたびに、母と話す時間が長くなった。母の熱が下がってからは、セルヴィーニャと星盤※23星座を描いた盤の上で、白と黒の石を取り合う遊び。を挟んで言い合うようにもなった。あいつがセルヴィーニャに勝つと、セルヴィーニャはむきになって、もう一局と言う。あいつが負けると、あいつは妙な言葉で何かつぶやく。マジカ、とか、ヤバイ、とか。セルヴィーニャがそれを真似して、母が笑った。

家の中に、知らない言葉が一つ、二つと混じっていった。

雨期の終わりに、母が熱を出した。

俺は外で薪を割っていた。割っても割っても、気持ちが落ち着かなかった。母はもう若くない。熱が肺に入れば、それまでだ。

夜中に、戸の隙間から、あいつの声が聞こえた。

母に話しかけていた。俺たちの言葉で。

ゆっくりで、ところどころ言葉の終わりがおかしかった。戸ごしでは半分も聞き取れなかったが、文にはなっていたらしい。火が強すぎないか。水を飲むか。寒くないか。そんなことを言っていたのだろう。俺がいつも母に言いそびれていることを、全部言っていたのかもしれない。

母が何か答えた。笑ったような息が聞こえた。

俺は斧を置いて、戸の前に立っていた。中には入らなかった。入れば、あいつは黙る。

明け方に、熱が下がった。

◆

刈り入れの終わったころ、あいつが木の塊を手の中で転がしながら帰ってきたことがある。

小さな四角い木に、字が彫ってあった。それを並べ替えて、紙に刷るのだという。木工の爺さんのところへ持っていって、断られたらしかった。戸口に立ったまま、塊を見下ろしていた。

俺は、あいつが何を言われると思っているのか、わかった。

だから、言ってやった。

「待て」

あの凍りの頃、崖の縁で言ったのと同じ言葉だ。

あのときは、待てと言って、綱を取りに走った。あいつは、俺が見捨てたと思ったのかもしれない。言葉がわからなかったのだ。俺が戻ってくると言ったのも、聞き取れなかったのだろう。

今のあいつなら、待て、くらいは聞き取れる。だから今度は、それだけ言った。あとは言わなかった。

お前の塊は、まだ使えない。だが、待て。お前の知っていることが、いつか役に立つときが来る。そういうことを、全部言ってやれるほど、俺は口がうまくない。

あいつは、塊を胸の物入れにしまった。それから、少し笑った。

わかったのかどうかは、知らない。

◆

日が昇った。

崖の縁に、最初の光が届いた。石の原の霜が、いっせいに光った。

岩陰の向こうで、小石が鳴った。今度は、止まなかった。ひづめの音が、崖の割れ目を伝って上がってくる。一頭。二頭。先頭の雌が、縁の上に顔を出した。湿った鼻先が、白い息を吐いた。

俺は弓を取った。

矢をつがえて、引いた。弦が頬に触れた。

雌の後ろから、若い雄が上がってきた。角がまだ短い。その後ろに、子連れの雌が二頭。

俺は、若い雄に狙いをつけた。

息を止めて、放した。

◆

崖山羊を担いで町へ戻ると、日はもう高かった。

戸口の前で、母が空を見上げていた。昼の空に、星はない。それでも母は、手のひらを上に向けて、北の空へ差し上げていた。

このところ、母は毎晩、星を見る。昼にも、ときどき見る。

夜中に、灯の前で指を折っていることもある。何かを数えるように、唇を動かして。系譜※24家ごとに、源(始祖)から今までの人の名を書き継いだ巻物。系譜に書かれて初めて、その家の者として扱われる。を唱えているのだと、俺は知っている。うちの炉の、源※25家系の始まりの人。家系を泉から流れ下る川にたとえるので、始祖を源と呼ぶ。家名は源の名である。から今までの瀬※26系譜の世代。家系を川の流れにたとえ、源から何瀬下りたかで世代を数える。を。

何を考えているのかも、だいたいわかる。

あいつは、紙の上で、まだ荷だ。荷のまま死ねば、あいつの名は系譜に書かれない。書かれない名は、星へ送ってやれない。母は、それが耐えられないのだ。

だが、人を系譜に書き入れるには、白い建物※27王の司が町に置く館。漆喰で白く塗るので、町の人はこう呼ぶ。縁の町の人がこう言えば、たいていドゥランドの書の司の館のことで、系譜の巻の写しを預かり、人を系譜に書き入れる手続きをする。書き入れには雑穀を納める。に払う。外から来た者なら、なおさら高い。うちには、そんな雑穀はない。借りるしかない。借りれば、何年も背負うことになる。

重い。

あいつは、帳場※28降ろし場の荷と数を帳簿に書きつける所。書記たちが荷札を読み、数え盤で確かめる。で数を数えている。ウェレルが言うには、帳場のどの書記より速いそうだ。手当が出るようになれば、借りは返せる、とウェレルは言う。ウェレルは、計算の話になると、いつも楽な方へ数える。

俺は、崖山羊を戸口の脇に下ろした。

母が、俺を見た。何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。

母が言い出すのは、たぶん、セルヴィーニャが北の高みへ行き、大人の名前を得て帰ってからだ。大人の名前を得た孫を前に、炉の決まりとして言う。母は、そういう人だ。

そのとき、俺は何と言うだろう。

崖山羊の腹を割きながら、考えた。

あの凍りの頃、俺は綱を下ろした。下ろしたのは俺だ。母ではない。綱にかけたものを途中で放すのは、綱番の恥だ。母はそう言った。だが、綱を下ろすかどうか決めたのは、俺だった。

だったら、引き上げきるのも、俺の仕事だ。

崖山羊の血が、霜の溶けた石の上に流れて、黒く染みこんでいった。

あいつは、明日の夕方に帰ってくる。十日に一度の帰り道だ。

俺は、崖山羊の肩の肉を、いちばん厚く切り分けて、別の皿に取った。

あいつは、あれが好きなのだ。口では言わないが、いつも最初にそこを取る。

俺と同じだ。

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