第19話 戻らない

崖を測ってから、十日がたった。

僕は毎晩、炉の灰に数を書いては消していた。

氷の棚まで二十七腕。霜の棚まで二百三十腕。崖のすそまで六百腕。綱を三段に継げば届く。届くことは、わかった。

でも、巻き上げる人がいない。

ドゥランドの降ろし場では、巻き胴の棒を十人がかりで押している。それが、崖の途中の継ぎ場ごとにもあるらしい。この町の綱場の巻き胴は一つきりだ。そのうえ、硬木を一本下ろすたびに、空になった綱を、また上まで巻き上げなければならない。

ある晩、ウェレラさんに聞いてみた。棒を押せる男は、この町に何人いるのか。

ウェレラさんは、指を折って、炉の主の名前を一つずつ数えた。それから、首を振った。両手の指で、足りた。そのうちの何人かは、ウェレラさんと同じくらいの年寄りだった。

数字をどう並べ替えても、手が足りなかった。

◆

シラノは、毎日、白糸川の道へ出かけていった。

道の幅を歩幅で測り、坂の手前でしゃがんで凍った地面を拳で叩き、倒れた木を斧でどけた。僕は、結び目の縄を持って、ときどきついていった。道の幅を測る。坂の長さを測る。

結び目を数えている僕を、シラノは上から眺めていた。それから、腹を抱えて笑った。

「rímba híro, rímba, rímba!尋が数えてる。数えてる、数えてる」

笑い声が、凍った川面に跳ね返った。

トカリーニャも、ついてきた。いつも少し後ろを、裸足で。

町から半日ほど上ったところに、急な坂があった。白糸川が岩のあいだを細く落ちていく脇を、道がまっすぐに下っている。凍った地面が、白く光っていた。

シラノは、橇に石を積んで、その坂の上まで引き上げた。丸太のかわりの重さだ。それから、橇の後ろに太い綱を結んで、坂の上の、根の張った切り株に、ぐるぐると二巻き、巻きつけた。

綱の端は、シラノが握った。

トカリーニャが、橇の前の綱を外した。

橇が、動いた。

石を積んだ橇は、凍った坂を、ずるずると滑りはじめた。すぐに速くなった。切り株に巻いた綱が、きしんだ。シラノは、綱を少しずつ送り出しながら、腰を落として踏ん張った。綱が切り株の上でこすれて、白い湯気のようなものが立った。焦げたような、いやな匂いがした。

橇は、坂の下で止まった。

シラノは、綱から手を放して、手のひらを見た。手袋の革が、黒く焦げていた。それから、大きな声で笑った。

僕は、坂の上から橇を見下ろしていた。

坂を下りるのに、引っぱる力はいらない。橇は、ほうっておけば、勝手に下りていく。シラノがしていたのは、それを押しとどめることだけだった。

それも、腕の力だけではない。切り株に二巻きした綱が、こすれて、重さのほとんどを受けていた。だから一人で足りた。

ドゥランドの降ろし場の十人も、半分は、たぶん同じことをしている。

◆

トカリーニャは、倉の炉に戻ると、いつも、すぐに外へ出ていった。家と家のあいだの石垣を、指の関節で叩いて歩く。こつ。こつ。叩くたびに、首をかしげる。

ある朝、僕が井戸に水を汲みに行くと、トカリーニャが井戸のそばの石垣を叩いていた。

「na glénan mǘn.」

独り言みたいな声だった。mǘn は、石のことだろうか。glén は、知らない。もう一度、石垣を叩いて、耳を寄せて、首を振った。それから、井戸の上の木の枠を叩いた。

こん。

今度は、うなずいた。

石は、何も返してこない。木は、返してくる。

井戸のそばには、セルヴィーニャもいた。桶を下ろしながら、トカリーニャの裸足の足を、ちらちらと見ていた。足の甲が、霜で赤くなっていた。

桶を引き上げると、何も言わずに家へ戻っていった。少しして、また出てきた。手に、毛皮の履き物を一足持っていた。セルヴィーニャの、替えの履き物だった。

セルヴィーニャは、それをトカリーニャの前に置いた。

「ké na éses frél?寒くないの?」

トカリーニャは、履き物を見下ろした。それから、セルヴィーニャの顔を見た。履き物を拾い上げて、両手で丁寧にそろえて、セルヴィーニャの手に返した。

首を、一度だけ横に振った。

セルヴィーニャの頬が、少しふくらんだ。でも、怒ったようには見えなかった。履き物を胸に抱えたまま、トカリーニャの赤い足を、もう一度見た。それから僕の袖を引いて、その足を顎で示し、自分の両腕を抱えて、ぶるっと震えてみせた。

僕にも、わからなかった。

◆

夜、トカリーニャが、ドルヴァルの炉に来た。

シラノに連れられて来たのだ。シラノは、ヒルヴァンと炉の脇で、橇の話をしていた。トカリーニャは、炉の向こうの、灯の届かない隅に、膝を抱えて座った。

僕は、いつものように、灰に数を書いていた。

気がつくと、トカリーニャが、灰をのぞきこんでいた。

僕が書いていたのは、高原の数字だった。27二十七。23二百三十。それを見る目は、木口の輪を見るときと同じだった。

僕は、灰の上に、一つずつ書いてみせた。1一。2二。3三。弧が一本、二本、三本。

トカリーニャは、灰の上の弧を、指先でなぞった。一本。二本。三本。それから、自分の指を一本、二本、三本と立てた。

5五 を書いた。杯の形。

彼女は手のひらを広げて、指を五本見せた。

十 を書いた。輪が一つ。

彼女は両手を広げた。それから、ほんの少しだけ、目を細めた。

覚えるのが、速かった。形を、指でなぞったら、もう忘れない。木の輪を一つずつ指でたどってきた手なのだと思った。

その夜のうちに、百まで読めるようになった。

帰りぎわ、灰の上の 51五十一 を指さした。倉の前の丸太の、狭い輪の数だ。

それから、僕を見た。

何か言いたそうな顔だった。でも、何も言わなかった。

◆

次の朝、井戸で、また桶を見ていた。

町の井戸は、倉の前の広場の隅にある。石で丸く囲った井戸の上に木の枠が組んであって、枠のてっぺんに木の車輪が一つついている。車輪にかけた縄の両端に、桶が一つずつ。片方の桶を引き上げると、もう片方の空の桶が、井戸の底へ下りていく。

僕は、縄を引く手を止めた。

片方が下りれば、片方が上がる。

綱場でも、同じことができる。巻き胴に、綱を二本巻けばいい。逆の向きに。一本の先に硬木を吊って下ろせば、巻き胴が回って、もう一本の綱が巻き取られる。

ドゥランドで十人がかりなのは、下ろす硬木を押しとどめるのと、空になった長い綱を、また上まで巻き戻すのとで、手を取られるからだ。押しとどめるのは、坂の上のシラノのように、綱の巻き方で軽くできる。巻き戻しは、二本目の綱が勝手にやってくれる。

人が足りない、は、それでかなり片づく。

桶の縄が、きしんだ。後ろに並んでいた女の人が、咳払いをした。僕は慌てて水を汲んで、場所を空けた。

◆

その日の昼、倉の前で、トカリーニャが丸太を叩いていた。

山猫の谷から運んできた、三本の丸太だ。倉の軒下に、縄で固めて寝かせてある。毎日、それを端から端まで叩いていた。

「pón kúndes?何してるの」

顔を上げずに答えが返ってきた。

「fíndim gandérul.木を聞いてる」

僕は、隣にしゃがんで、丸太の木口を見ていた。

この丸太は、どこへ行くのだろう。

帳場で、何百枚も見てきた書付を思い出した。硬木は、ドゥランドの降ろし場から崖を下ろされて、崖のすその縁の市で売られる。泥の原では、ダーロルの家の杭になるのかもしれない。

トカリーニャが、叩く手を止めて、丸太に手のひらを置いた。

「dúlo gandér. na hóino.」

硬木は、下りる。

na hóino。帰らない。hóin は、レウマンさんが「帰っていなさい」と言ったときの言葉だ。

トカリーニャは、丸太を、まるで人の背中みたいに、ぽんぽんと二度叩いた。悲しそうな顔ではなかった。当たり前のことを言っただけの顔だった。

下りて、帰らない。

この町の綱も、ずっとそうだった。氷の棚まで、下ろすだけ。上がってくるものは、何もない。

井戸の桶なら、上がってくる桶には水が入っている。でも、綱場の二本目の綱の先には、何が結んである。

何も。この町の崖の下には、誰もいないのだから。

空の綱が上がってくるだけでも、巻き戻す手はいらなくなる。それはいい。でも、どうせ上がってくるのなら、何かを載せて上がってきてほしかった。

トカリーニャは、首をかしげて、僕を見ていた。僕は、丸太を、彼女と同じように、ぽんぽんと二度叩いた。

変な顔をされた。

◆

ドゥランドの崖の下には、上がってくるものがある。塩の箱だ。毎日、山のように。それなら、どうして向こうでは、下りる硬木で塩を引き上げないのだろう。あんなに大きな降ろし場で、誰も思いつかなかったとは思えなかった。

その日の夕方、薪を割っていたウェレルに聞いてみた。

「un dulándoi, na auríþo fúnel aurfáronドゥランドでは、綱は上げ荷を上げない. es pósどうして?」

ウェレルは斧を下ろして、僕の顔を見た。それから、にやっと笑って、自分の背中を親指でさした。

「éso aurfáron上げ荷 rúunos némores俺たちの背中の. faronérimor担ぐ ó, esósだから mánimor食う.」

上げ荷は、俺たちの背中の。担ぐ。だから、食う。

ドゥランドの大石段を、塩の箱を背負って上っていく運び人たちの列を思い出した。去年の雨季、僕もその列の中にいた。肩に食いこむ紐の一本一本が、その晩の粥になった。

ウェレルは、また斧を振り上げた。薪が、乾いた音を立てて割れた。

向こうの塩は、運び人の背中が上げる。この町の崖の下には、上げる塩もなければ、担ぐ背中もない。

◆

その夜、炉の灰に絵を描いた。

綱場の巻き胴。腕木。そこまでは、今のままでいい。

変えるのは、綱の巻き方だ。

巻き胴に、綱を二本巻く。一本は上から、もう一本は下から、逆の向きに。腕木を二本並べて、それぞれの車輪から、二本の綱を崖へ下ろす。巻き胴の脇には、坂の切り株のかわりに、綱をこすらせて押さえる輪。

描き終えて、絵を見下ろした。

灰の上なら、何でもうまくいく。

二本目の綱の先は、まだ空のままだった。それから、霜の棚から崖のすそまでの、三百七十腕。その二つだけ、描くたびに、指が止まった。

炉の向こうで、ヒルヴァンが、灰の絵を見ていた。

一年前、僕は雪の上に、車輪の絵を描いた。ヒルヴァンは、それを黙って踏み消した。あのとき、僕はまだ言葉も知らず、紙の上では荷だった。

ヒルヴァンは、長いあいだ、絵を見ていた。

それから、炉に薪を一本足して、寝床へ行った。

踏み消さなかった。

◆

次の朝、シラノとトカリーニャは、谷へ帰っていった。

空の橇の綱を肩にかけて、シラノは戸口で振り返った。

「hóinimor.帰る tórimor ín fréiman.また来る」

トカリーニャは、橇の後ろを歩いていった。

一度だけ、振り返った。

僕は、手を上げた。

トカリーニャは、手を上げなかった。かわりに、道ばたの松の幹を、指の関節で、こつ、と一度だけ叩いた。

それから、背中を向けて、霜の道を上っていった。

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