小説
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崖を測ってから、十日がたった。
僕は毎晩、炉の灰に数を書いては消していた。
氷の棚まで二十七腕。霜の棚まで二百三十腕。崖のすそまで六百腕。綱を三段に継げば届く。届くことは、わかった。
でも、巻き上げる人がいない。
ドゥランドの降ろし場では、巻き胴の棒を十人がかりで押している。それが、崖の途中の継ぎ場ごとにもあるらしい。この町の綱場の巻き胴は一つきりだ。そのうえ、硬木を一本下ろすたびに、空になった綱を、また上まで巻き上げなければならない。
ある晩、ウェレラさんに聞いてみた。棒を押せる男は、この町に何人いるのか。
ウェレラさんは、指を折って、炉の主の名前を一つずつ数えた。それから、首を振った。両手の指で、足りた。そのうちの何人かは、ウェレラさんと同じくらいの年寄りだった。
数字をどう並べ替えても、手が足りなかった。
◆
シラノは、毎日、白糸川の道へ出かけていった。
道の幅を歩幅で測り、坂の手前でしゃがんで凍った地面を拳で叩き、倒れた木を斧でどけた。僕は、結び目の縄を持って、ときどきついていった。道の幅を測る。坂の長さを測る。
結び目を数えている僕を、シラノは上から眺めていた。それから、腹を抱えて笑った。
「rímba híro, rímba, rímba!」
笑い声が、凍った川面に跳ね返った。
トカリーニャも、ついてきた。いつも少し後ろを、裸足で。
町から半日ほど上ったところに、急な坂があった。白糸川が岩のあいだを細く落ちていく脇を、道がまっすぐに下っている。凍った地面が、白く光っていた。
シラノは、橇に石を積んで、その坂の上まで引き上げた。丸太のかわりの重さだ。それから、橇の後ろに太い綱を結んで、坂の上の、根の張った切り株に、ぐるぐると二巻き、巻きつけた。
綱の端は、シラノが握った。
トカリーニャが、橇の前の綱を外した。
橇が、動いた。
石を積んだ橇は、凍った坂を、ずるずると滑りはじめた。すぐに速くなった。切り株に巻いた綱が、きしんだ。シラノは、綱を少しずつ送り出しながら、腰を落として踏ん張った。綱が切り株の上でこすれて、白い湯気のようなものが立った。焦げたような、いやな匂いがした。
橇は、坂の下で止まった。
シラノは、綱から手を放して、手のひらを見た。手袋の革が、黒く焦げていた。それから、大きな声で笑った。
僕は、坂の上から橇を見下ろしていた。
坂を下りるのに、引っぱる力はいらない。橇は、ほうっておけば、勝手に下りていく。シラノがしていたのは、それを押しとどめることだけだった。
それも、腕の力だけではない。切り株に二巻きした綱が、こすれて、重さのほとんどを受けていた。だから一人で足りた。
ドゥランドの降ろし場の十人も、半分は、たぶん同じことをしている。
◆
トカリーニャは、倉の炉に戻ると、いつも、すぐに外へ出ていった。家と家のあいだの石垣を、指の関節で叩いて歩く。こつ。こつ。叩くたびに、首をかしげる。
ある朝、僕が井戸に水を汲みに行くと、トカリーニャが井戸のそばの石垣を叩いていた。
「na glénan mǘn.」
独り言みたいな声だった。mǘn は、石のことだろうか。glén は、知らない。もう一度、石垣を叩いて、耳を寄せて、首を振った。それから、井戸の上の木の枠を叩いた。
こん。
今度は、うなずいた。
石は、何も返してこない。木は、返してくる。
井戸のそばには、セルヴィーニャもいた。桶を下ろしながら、トカリーニャの裸足の足を、ちらちらと見ていた。足の甲が、霜で赤くなっていた。
桶を引き上げると、何も言わずに家へ戻っていった。少しして、また出てきた。手に、毛皮の履き物を一足持っていた。セルヴィーニャの、替えの履き物だった。
セルヴィーニャは、それをトカリーニャの前に置いた。
「ké na éses frél?」
トカリーニャは、履き物を見下ろした。それから、セルヴィーニャの顔を見た。履き物を拾い上げて、両手で丁寧にそろえて、セルヴィーニャの手に返した。
首を、一度だけ横に振った。
セルヴィーニャの頬が、少しふくらんだ。でも、怒ったようには見えなかった。履き物を胸に抱えたまま、トカリーニャの赤い足を、もう一度見た。それから僕の袖を引いて、その足を顎で示し、自分の両腕を抱えて、ぶるっと震えてみせた。
僕にも、わからなかった。
◆
夜、トカリーニャが、ドルヴァルの炉に来た。
シラノに連れられて来たのだ。シラノは、ヒルヴァンと炉の脇で、橇の話をしていた。トカリーニャは、炉の向こうの、灯の届かない隅に、膝を抱えて座った。
僕は、いつものように、灰に数を書いていた。
気がつくと、トカリーニャが、灰をのぞきこんでいた。
僕が書いていたのは、高原の数字だった。27。23。それを見る目は、木口の輪を見るときと同じだった。
僕は、灰の上に、一つずつ書いてみせた。1。2。3。弧が一本、二本、三本。
トカリーニャは、灰の上の弧を、指先でなぞった。一本。二本。三本。それから、自分の指を一本、二本、三本と立てた。
5 を書いた。杯の形。
彼女は手のひらを広げて、指を五本見せた。
を書いた。輪が一つ。
彼女は両手を広げた。それから、ほんの少しだけ、目を細めた。
覚えるのが、速かった。形を、指でなぞったら、もう忘れない。木の輪を一つずつ指でたどってきた手なのだと思った。
その夜のうちに、百まで読めるようになった。
帰りぎわ、灰の上の 51 を指さした。倉の前の丸太の、狭い輪の数だ。
それから、僕を見た。
何か言いたそうな顔だった。でも、何も言わなかった。
◆
次の朝、井戸で、また桶を見ていた。
町の井戸は、倉の前の広場の隅にある。石で丸く囲った井戸の上に木の枠が組んであって、枠のてっぺんに木の車輪が一つついている。車輪にかけた縄の両端に、桶が一つずつ。片方の桶を引き上げると、もう片方の空の桶が、井戸の底へ下りていく。
僕は、縄を引く手を止めた。
片方が下りれば、片方が上がる。
綱場でも、同じことができる。巻き胴に、綱を二本巻けばいい。逆の向きに。一本の先に硬木を吊って下ろせば、巻き胴が回って、もう一本の綱が巻き取られる。
ドゥランドで十人がかりなのは、下ろす硬木を押しとどめるのと、空になった長い綱を、また上まで巻き戻すのとで、手を取られるからだ。押しとどめるのは、坂の上のシラノのように、綱の巻き方で軽くできる。巻き戻しは、二本目の綱が勝手にやってくれる。
人が足りない、は、それでかなり片づく。
桶の縄が、きしんだ。後ろに並んでいた女の人が、咳払いをした。僕は慌てて水を汲んで、場所を空けた。
◆
その日の昼、倉の前で、トカリーニャが丸太を叩いていた。
山猫の谷から運んできた、三本の丸太だ。倉の軒下に、縄で固めて寝かせてある。毎日、それを端から端まで叩いていた。
「pón kúndes?」
顔を上げずに答えが返ってきた。
「fíndim gandérul.」
僕は、隣にしゃがんで、丸太の木口を見ていた。
この丸太は、どこへ行くのだろう。
帳場で、何百枚も見てきた書付を思い出した。硬木は、ドゥランドの降ろし場から崖を下ろされて、崖のすその縁の市で売られる。泥の原では、ダーロルの家の杭になるのかもしれない。
トカリーニャが、叩く手を止めて、丸太に手のひらを置いた。
「dúlo gandér. na hóino.」
硬木は、下りる。
na hóino。帰らない。hóin は、レウマンさんが「帰っていなさい」と言ったときの言葉だ。
トカリーニャは、丸太を、まるで人の背中みたいに、ぽんぽんと二度叩いた。悲しそうな顔ではなかった。当たり前のことを言っただけの顔だった。
下りて、帰らない。
この町の綱も、ずっとそうだった。氷の棚まで、下ろすだけ。上がってくるものは、何もない。
井戸の桶なら、上がってくる桶には水が入っている。でも、綱場の二本目の綱の先には、何が結んである。
何も。この町の崖の下には、誰もいないのだから。
空の綱が上がってくるだけでも、巻き戻す手はいらなくなる。それはいい。でも、どうせ上がってくるのなら、何かを載せて上がってきてほしかった。
トカリーニャは、首をかしげて、僕を見ていた。僕は、丸太を、彼女と同じように、ぽんぽんと二度叩いた。
変な顔をされた。
◆
ドゥランドの崖の下には、上がってくるものがある。塩の箱だ。毎日、山のように。それなら、どうして向こうでは、下りる硬木で塩を引き上げないのだろう。あんなに大きな降ろし場で、誰も思いつかなかったとは思えなかった。
その日の夕方、薪を割っていたウェレルに聞いてみた。
「un dulándoi, na auríþo fúnel aurfáron. es pós?」
ウェレルは斧を下ろして、僕の顔を見た。それから、にやっと笑って、自分の背中を親指でさした。
「éso aurfáron rúunos némores. faronérimor ó, esós mánimor.」
上げ荷は、俺たちの背中の。担ぐ。だから、食う。
ドゥランドの大石段を、塩の箱を背負って上っていく運び人たちの列を思い出した。去年の雨季、僕もその列の中にいた。肩に食いこむ紐の一本一本が、その晩の粥になった。
ウェレルは、また斧を振り上げた。薪が、乾いた音を立てて割れた。
向こうの塩は、運び人の背中が上げる。この町の崖の下には、上げる塩もなければ、担ぐ背中もない。
◆
その夜、炉の灰に絵を描いた。
綱場の巻き胴。腕木。そこまでは、今のままでいい。
変えるのは、綱の巻き方だ。
巻き胴に、綱を二本巻く。一本は上から、もう一本は下から、逆の向きに。腕木を二本並べて、それぞれの車輪から、二本の綱を崖へ下ろす。巻き胴の脇には、坂の切り株のかわりに、綱をこすらせて押さえる輪。
描き終えて、絵を見下ろした。
灰の上なら、何でもうまくいく。
二本目の綱の先は、まだ空のままだった。それから、霜の棚から崖のすそまでの、三百七十腕。その二つだけ、描くたびに、指が止まった。
炉の向こうで、ヒルヴァンが、灰の絵を見ていた。
一年前、僕は雪の上に、車輪の絵を描いた。ヒルヴァンは、それを黙って踏み消した。あのとき、僕はまだ言葉も知らず、紙の上では荷だった。
ヒルヴァンは、長いあいだ、絵を見ていた。
それから、炉に薪を一本足して、寝床へ行った。
踏み消さなかった。
◆
次の朝、シラノとトカリーニャは、谷へ帰っていった。
空の橇の綱を肩にかけて、シラノは戸口で振り返った。
「hóinimor. tórimor ín fréiman.」
トカリーニャは、橇の後ろを歩いていった。
一度だけ、振り返った。
僕は、手を上げた。
トカリーニャは、手を上げなかった。かわりに、道ばたの松の幹を、指の関節で、こつ、と一度だけ叩いた。
それから、背中を向けて、霜の道を上っていった。
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