第20話 綱が上げる荷

シラノたちが谷へ帰った日の夕方、ヒルヴァンは、一人で綱場へ行った。

僕は、少し離れてついていった。

ヒルヴァンは、巻き胴のまわりを、ゆっくりと一周した。凍った綱の撚りに、手のひらを当てた。軸受けの脂を、指でこそげて匂いをかいだ。腕木の根もとを、拳で叩いた。それから、崖の縁に立って、下をのぞいた。氷の棚の上に、雪が薄く積もっていた。

長いあいだ、そうしていた。

その夜、炉の前で、ヒルヴァンは灰の絵をもう一度見た。それから、家の者の顔を順に見て、短く言った。

「kúndimor ó.やる」

ウェレラさんは、糸を撚る手を止めなかった。ウェレルが、にやりと笑った。セルヴィーニャが、僕の脇腹を肘でつついた。

綱場は、綱番の家の持ち場だ。巻き胴に綱を一本足すくらいなら、寄り合いに聞くことではないらしかった。

ただ、崖の外へ何かを下ろすのは、別の話だ。綱は凍っている。どのみち、霧の季節が明けるまでは、何も下ろせない。

作るだけなら、冬のあいだにできる。

◆

最初に、木工の老人のところへ行った。

測り竿を作ってくれた、あの老人だ。僕は、灰の絵を写した板を見せた。巻き胴と、逆に巻いた二本の綱。巻き胴の脇の、綱をこすらせる輪。

老人は、板を長いあいだ見ていた。それから、作業台の上の木切れを、いくつか手に取った。

「brólim pírin.小さくなら作れる」

五日後にできあがったのは、腕の長さほどの、小さな綱場だった。

台の上に、太い枝を削った巻き胴が一つ。巻き胴には、細い紐が二本、逆の向きに巻いてある。台の端から、二本の紐が、それぞれの小さな車輪を通って、床へ垂れ下がっていた。

片方の紐の先には、砂を詰めた小さな革袋。もう片方には、水を入れた素焼きの小さな壺。砂の袋のほうが、少しだけ重い。

老人の作業場に、家族が集まった。倉の老人も来た。

戸口の外には、エルサンがいた。中には入らずに、腕を組んで、戸口の柱にもたれていた。

僕は、巻き胴の軸を押さえていた指を、そっと離した。

巻き胴が、回った。

砂の袋が、ゆっくりと床へ下りていった。その横を、水の壺が、ゆっくりと上がってきた。台の真ん中あたりで、二つがすれ違った。

水の壺が、台の端まで上がってきた。僕は、壺を手で受け止めた。中の水が、こぼれずに揺れていた。

ウェレルが、口笛を吹いた。

戸口のほうで、鼻を鳴らす音がした。

エルサンは、作業台の上の小さな綱場を、顎で示した。それから、自分の太い腕で、何か大きなものを抱える仕草をして、崖のほうを指さした。最後に、両手を広げて、首を振った。

エルサンは、それだけして、戸口から離れていった。

言い返せなかった。台の上の紐には、重さがない。本当の綱は太くて、重い。三百七十腕の綱なら、それだけで硬木より重いかもしれない。

ウェレラさんは、帰りぎわに、作業台の前で立ち止まった。砂の袋を指でつまんで、少しだけ持ち上げた。それから、水の壺を、同じように持ち上げた。重さを比べるように。

何も言わずに、作業場を出ていった。

◆

それから、本物に取りかかった。

巻き胴は、綱場から外さずに直した。外したら、もう二度と据えられないかもしれない、とヒルヴァンが首を振ったからだ。凍った地面の上で、膝をついて、巻き胴の縁に歯を刻んだ。木工の老人が鑿を当て、ヒルヴァンが木槌で打つ。歯が一つ刻めるたびに、老人は指でなぞって、深さを確かめた。

歯に噛ませる木の爪は、老人が作業場で削ってきた。巻き胴の脇の柱に、爪を下ろす軸を据えた。

締め綱の輪は、巻き胴の軸の端に、太い木の輪をはめて作った。そこに、革の帯を一巻き半、巻きつける。帯の片端は柱に、もう片端は長い棒の先に。棒を押し下げると、帯が輪を締めつけて、こすれる。坂の上の、切り株と綱だ。

革は、ウェレラさんが出してくれた。冬の寝床に敷いていた、古い山羊の革だった。

手は、いつも凍えていた。鑿の柄が、手のひらに貼りついた。指がかじかむと、炉に戻って手をあぶり、また綱場へ出た。昼のあいだしか、仕事にならなかった。日が傾くと、鑿の音が、崖の縁で急に高く響くようになった。

二本目の綱は、倉の奥にあった。何年も前に打って、使わずにしまってあった古い綱だ。ヒルヴァンが、端から端まで手でたぐって、撚りのほつれを一つずつ確かめた。ほつれたところは切って、継いだ。継ぎ目は、ヒルヴァンが自分で編んだ。

氷の棚まで届く、三綱の長さが要る。足りない分は、町の古い綱を、何本か継ぎ足した。

夜は、炉の灰に数を書いた。巻き胴の太さと、綱の重さ。硬木一本の重さと、上げる側に吊るものの重さ。歯止めの歯の数。

セルヴィーニャが、ときどき、僕の灰をのぞきこんだ。それから、自分の灰に、同じ数を写して、横に念押しの字を書いた。

◆

ある晩、セルヴィーニャに頼んで、部屋の隅の箱から、あの布を出してもらった。

去年の雨季に、家族みんなで、旧道の碑から写し取った拓本だ。黒く塗った布は、畳んだ折り目のところだけ、少し白っぽく擦れていた。セルヴィーニャは、炉のそばの床に、それをそっと広げた。

krailesa funelara farona te duliþo funela.
krailesa funelara farona te auriþo funela.

黒い布の上に、二行の字が白く浮かんでいた。

綱が下ろす荷。綱が上げる荷。

あのときの僕は、二行目を、自分のための行だと思った。綱で上げられた僕を、綱番が預かる、と。

でも、何百年も前にこれを刻んだ人は、崖から人間が落ちてくることなど、考えていなかったはずだ。

僕は、二行目の auriþo を指さした。それから、綱場のほうを指さして、首をかしげてみせた。

セルヴィーニャは、しばらく布を見下ろしていた。それから、困ったように笑って、肩をすくめた。

「na sóinim ó.気づかなかった」

子どものころから、何度も見てきた碑のはずだった。

次の日の夕方、薪を割っていたウェレルに聞いてみた。

「víro言う kéumo碑, te auríþo上げる fúnel綱. naない auríþo fúnel un funelóroiこの町で. es pósどうして?」

ウェレルは、少し考えてから、首を振った。

「naþílわからん. anlúin silóur, dulíþo fúnel du glünóra昔から、綱は棚まで下ろすだけだ.」

倉の老人にも、布を見せた。綱場を指さして、手のひらを下から上へ、ゆっくり上げてみせた。綱が、荷を、上げる。昔は、そうしていたのか。

老人は、縄をなう手を止めた。目を閉じて、歌った。

「ín, glünóra一つ、氷の棚. dulénde fláinin軽く下りよ.」

一つ目の棚だけ歌って、目を開けた。そして、首を横に振った。

「naþíl.」

でも、僕の耳には、別のことが残った。

一つの棚ごとに、下りよ、下りよ、と送る歌。上がってくる荷を迎える言葉は、どこにもない。

碑には、二行。歌には、一つ。

どちらかが、何かを落としたのだ。

◆

冬の終わりは、音でわかった。

夜のあいだ、軒のつららが、ときどき折れて落ちる。かつん、と乾いた音を立てて、凍った地面で砕ける。白糸川の滝の氷の柱の奥から、ごぼごぼと水の音が戻ってくる。昼の日差しが、ほんの少しだけ柔らかくなって、石垣の南側の霜だけが、昼過ぎに溶けて黒く濡れた。

綱場の巻き胴には、歯が刻まれ、締め綱の輪がはまり、二本目の綱が、逆の向きに巻かれていた。

残っているのは、二本目の腕木だった。

◆

シラノとトカリーニャが、また下りてきたのは、その頃だった。

白糸川の道に、橇が並んでいた。今度は、五つ。どの橇にも、黒い丸太が一本ずつ縛りつけてある。谷の樵たちが、汗と湯気を立てながら、綱を肩にかけて引いていた。

シラノは、橇から飛び降りて、凍った地面を踵で踏み鳴らした。

「glǘno vól地面が凍ってる. esós tórimorだから来た.」

どの丸太にも、どこかに割れや傷があった。

エルサンは、倉の前で腕を組んで、橇の列をにらんでいた。倉の老人が、何か言った。エルサンは、長いあいだ黙っていた。それから、倉の戸を開けた。

倉の前と奥に、前の三本と合わせて、八本の丸太が並んだ。

◆

次の朝、二本目の腕木を、どこに立てるかを決めに、綱場へ行った。

ヒルヴァンとウェレルと、シラノ。トカリーニャも、ついてきた。

腕木は、岩に穴を穿って、根もとを差しこんで立てる。新しく穴を穿つなら、硬い岩を、何日も鑿で彫ることになる。

ヒルヴァンは、今の腕木のまわりを、何度も歩いた。崖の縁の岩の割れ目を、足で探っていた。

僕は、今の腕木の、すぐ横を見ていた。

腕木から、二腕ほど離れたところに、四角い穴があった。中には、水が張っていた。表面が、白く凍っている。

綱場に来るたびに、目に入っていた穴だった。ヒルヴァンは乾季のあいだ、そこに綱を浸けて湿らせる。乾いた綱は切れやすいからだ。僕も町に帰るたびに、その水を汲んだ。

僕は穴を指さした。

「pó éso só?これは何」

ヒルヴァンは、穴を見もしないで答えた。

「ílmos水の snúlvo.」

snúlvo は穴のことらしい。水の穴。ヒルヴァンが子どものころから、たぶん、そのずっと前から、水の穴だったのだろう。

でも、四角い。

僕は、今の腕木の根もとを見た。腕木を差しこんである岩の穴も、四角い。大きさも、同じに見えた。

僕は、ウェレルから桶を借りて、氷を割った。水を汲み出しはじめた。ウェレルが、何をしているんだ、という顔をした。それから、黙って、もう一つの桶を持ってきた。

水の下は、黒い泥だった。何十年、何百年ぶんの、泥と落ち葉と、綱の屑。手で掻き出すと、指がすぐに感覚をなくした。

泥の下で、指先が、何か硬いものに触れた。

石ではなかった。

トカリーニャが、僕の横にしゃがんだ。泥の中に手を突っこんで、指の関節で、その硬いものを叩いた。

こつ。

トカリーニャは、耳を泥に近づけるようにして、もう一度叩いた。それから、顔を上げた。

「gandér.」

硬木。

穴の底に、黒く朽ちた硬木が、ぎっしりと詰まっていた。ヒルヴァンが棒の先でつつくと、表面がぼろぼろと崩れた。でも、芯のほうは、まだ硬かった。

腕木の、根もとだ。

ここに、もう一本、腕木が立っていたのだ。今の腕木と並んで。

ヒルヴァンは、穴のふちにしゃがんだまま、長いあいだ動かなかった。毎年、ここに綱を浸けてきた人だ。

腕木が二本なら、綱も二本。

崖を測ったとき、西の縁から見た東の壁を思い出した。氷の棚から上は、縁から削った段も崩れていた。担いでは上がれない。崖のすそから上がってきた荷も、ここからは綱に乗ったのかもしれない。

下ろしながら、上げていたのかもしれない。この町の、綱場で。

穴は、何も語らない。ただ、碑の二行と、腕木の二本は、数がそろっていた。

◆

朽ちた根もとを掘り出すのに、二日かかった。ヒルヴァンは、それを捨てずに、倉の奥にしまった。

三日目に、穴に、新しい腕木を差しこんだ。シラノと樵たちが、谷から運んできた硬木を一本、腕木の太さに削ってくれた。男たちが綱で引き起こし、穴に根もとを落としこむ。楔を打ちこむ音が、崖の縁に響いた。

腕木が、二本並んで、崖の外の空へ突き出した。

トカリーニャが、新しい腕木の根もとを、指の関節で叩いた。それから、もとからあった腕木の根もとを叩いた。二つの音を、聞き比べるように。

口の端が、ほんの少しだけ上がった。

◆

その次の朝、シラノとトカリーニャは、また谷へ帰っていった。

空の橇を引いて。地面が解ける前に、谷まで戻らなければならない。

シラノは、崖の縁のほうを顎で示した。崖の下に、白いものが溜まりはじめていた。

「lúin tóro nébro, tórimor ín fréiman.霧が来たら、また来る」

トカリーニャは、何も言わずに、橇の後ろを歩いていった。道ばたの松の前を通るとき、指の関節で、幹を一度だけ叩いた。

こつ。

僕は、綱場へ行った。

巻き胴に、二本の綱が、逆の向きに巻いてあった。腕木が二本、並んでいた。どちらの綱も、白く凍っていた。

二本目の綱の先には、まだ、何も結んでいなかった。

崖の下の白いものが、少しずつ、這い上がってきていた。

前の話 次の話

高原語辞典

高原語辞典

左の一覧から語を選ぶか、上の検索欄に日本語またはローマ字を入れてください。

高原語入門

左の目次から課を選んでください。

高原語の文法書

左の一覧から選んでください。

資料集

高原語で書かれた読み物です。左の一覧から選んでください。

小説

左の目次から話を選んでください。

語彙の候補

小説・世界設定・翻訳から見つけた「辞書にない語」の候補です(uv run conlang dict-grow 名前 で作られます)。登録する語を選んでください。同義語として複数選べます。

作ってほしい語を依頼する