小説
左の目次から話を選んでください。
シラノたちが谷へ帰った日の夕方、ヒルヴァンは、一人で綱場へ行った。
僕は、少し離れてついていった。
ヒルヴァンは、巻き胴のまわりを、ゆっくりと一周した。凍った綱の撚りに、手のひらを当てた。軸受けの脂を、指でこそげて匂いをかいだ。腕木の根もとを、拳で叩いた。それから、崖の縁に立って、下をのぞいた。氷の棚の上に、雪が薄く積もっていた。
長いあいだ、そうしていた。
その夜、炉の前で、ヒルヴァンは灰の絵をもう一度見た。それから、家の者の顔を順に見て、短く言った。
「kúndimor ó.」
ウェレラさんは、糸を撚る手を止めなかった。ウェレルが、にやりと笑った。セルヴィーニャが、僕の脇腹を肘でつついた。
綱場は、綱番の家の持ち場だ。巻き胴に綱を一本足すくらいなら、寄り合いに聞くことではないらしかった。
ただ、崖の外へ何かを下ろすのは、別の話だ。綱は凍っている。どのみち、霧の季節が明けるまでは、何も下ろせない。
作るだけなら、冬のあいだにできる。
◆
最初に、木工の老人のところへ行った。
測り竿を作ってくれた、あの老人だ。僕は、灰の絵を写した板を見せた。巻き胴と、逆に巻いた二本の綱。巻き胴の脇の、綱をこすらせる輪。
老人は、板を長いあいだ見ていた。それから、作業台の上の木切れを、いくつか手に取った。
「brólim pírin.」
五日後にできあがったのは、腕の長さほどの、小さな綱場だった。
台の上に、太い枝を削った巻き胴が一つ。巻き胴には、細い紐が二本、逆の向きに巻いてある。台の端から、二本の紐が、それぞれの小さな車輪を通って、床へ垂れ下がっていた。
片方の紐の先には、砂を詰めた小さな革袋。もう片方には、水を入れた素焼きの小さな壺。砂の袋のほうが、少しだけ重い。
老人の作業場に、家族が集まった。倉の老人も来た。
戸口の外には、エルサンがいた。中には入らずに、腕を組んで、戸口の柱にもたれていた。
僕は、巻き胴の軸を押さえていた指を、そっと離した。
巻き胴が、回った。
砂の袋が、ゆっくりと床へ下りていった。その横を、水の壺が、ゆっくりと上がってきた。台の真ん中あたりで、二つがすれ違った。
水の壺が、台の端まで上がってきた。僕は、壺を手で受け止めた。中の水が、こぼれずに揺れていた。
ウェレルが、口笛を吹いた。
戸口のほうで、鼻を鳴らす音がした。
エルサンは、作業台の上の小さな綱場を、顎で示した。それから、自分の太い腕で、何か大きなものを抱える仕草をして、崖のほうを指さした。最後に、両手を広げて、首を振った。
エルサンは、それだけして、戸口から離れていった。
言い返せなかった。台の上の紐には、重さがない。本当の綱は太くて、重い。三百七十腕の綱なら、それだけで硬木より重いかもしれない。
ウェレラさんは、帰りぎわに、作業台の前で立ち止まった。砂の袋を指でつまんで、少しだけ持ち上げた。それから、水の壺を、同じように持ち上げた。重さを比べるように。
何も言わずに、作業場を出ていった。
◆
それから、本物に取りかかった。
巻き胴は、綱場から外さずに直した。外したら、もう二度と据えられないかもしれない、とヒルヴァンが首を振ったからだ。凍った地面の上で、膝をついて、巻き胴の縁に歯を刻んだ。木工の老人が鑿を当て、ヒルヴァンが木槌で打つ。歯が一つ刻めるたびに、老人は指でなぞって、深さを確かめた。
歯に噛ませる木の爪は、老人が作業場で削ってきた。巻き胴の脇の柱に、爪を下ろす軸を据えた。
締め綱の輪は、巻き胴の軸の端に、太い木の輪をはめて作った。そこに、革の帯を一巻き半、巻きつける。帯の片端は柱に、もう片端は長い棒の先に。棒を押し下げると、帯が輪を締めつけて、こすれる。坂の上の、切り株と綱だ。
革は、ウェレラさんが出してくれた。冬の寝床に敷いていた、古い山羊の革だった。
手は、いつも凍えていた。鑿の柄が、手のひらに貼りついた。指がかじかむと、炉に戻って手をあぶり、また綱場へ出た。昼のあいだしか、仕事にならなかった。日が傾くと、鑿の音が、崖の縁で急に高く響くようになった。
二本目の綱は、倉の奥にあった。何年も前に打って、使わずにしまってあった古い綱だ。ヒルヴァンが、端から端まで手でたぐって、撚りのほつれを一つずつ確かめた。ほつれたところは切って、継いだ。継ぎ目は、ヒルヴァンが自分で編んだ。
氷の棚まで届く、三綱の長さが要る。足りない分は、町の古い綱を、何本か継ぎ足した。
夜は、炉の灰に数を書いた。巻き胴の太さと、綱の重さ。硬木一本の重さと、上げる側に吊るものの重さ。歯止めの歯の数。
セルヴィーニャが、ときどき、僕の灰をのぞきこんだ。それから、自分の灰に、同じ数を写して、横に念押しの字を書いた。
◆
ある晩、セルヴィーニャに頼んで、部屋の隅の箱から、あの布を出してもらった。
去年の雨季に、家族みんなで、旧道の碑から写し取った拓本だ。黒く塗った布は、畳んだ折り目のところだけ、少し白っぽく擦れていた。セルヴィーニャは、炉のそばの床に、それをそっと広げた。
黒い布の上に、二行の字が白く浮かんでいた。
綱が下ろす荷。綱が上げる荷。
あのときの僕は、二行目を、自分のための行だと思った。綱で上げられた僕を、綱番が預かる、と。
でも、何百年も前にこれを刻んだ人は、崖から人間が落ちてくることなど、考えていなかったはずだ。
僕は、二行目の auriþo を指さした。それから、綱場のほうを指さして、首をかしげてみせた。
セルヴィーニャは、しばらく布を見下ろしていた。それから、困ったように笑って、肩をすくめた。
「na sóinim ó.」
子どものころから、何度も見てきた碑のはずだった。
次の日の夕方、薪を割っていたウェレルに聞いてみた。
「víro kéumo, te auríþo fúnel. na auríþo fúnel un funelóroi. es pós?」
ウェレルは、少し考えてから、首を振った。
「naþíl. anlúin silóur, dulíþo fúnel du glünóra.」
倉の老人にも、布を見せた。綱場を指さして、手のひらを下から上へ、ゆっくり上げてみせた。綱が、荷を、上げる。昔は、そうしていたのか。
老人は、縄をなう手を止めた。目を閉じて、歌った。
「ín, glünóra. dulénde fláinin.」
一つ目の棚だけ歌って、目を開けた。そして、首を横に振った。
「naþíl.」
でも、僕の耳には、別のことが残った。
一つの棚ごとに、下りよ、下りよ、と送る歌。上がってくる荷を迎える言葉は、どこにもない。
碑には、二行。歌には、一つ。
どちらかが、何かを落としたのだ。
◆
冬の終わりは、音でわかった。
夜のあいだ、軒のつららが、ときどき折れて落ちる。かつん、と乾いた音を立てて、凍った地面で砕ける。白糸川の滝の氷の柱の奥から、ごぼごぼと水の音が戻ってくる。昼の日差しが、ほんの少しだけ柔らかくなって、石垣の南側の霜だけが、昼過ぎに溶けて黒く濡れた。
綱場の巻き胴には、歯が刻まれ、締め綱の輪がはまり、二本目の綱が、逆の向きに巻かれていた。
残っているのは、二本目の腕木だった。
◆
シラノとトカリーニャが、また下りてきたのは、その頃だった。
白糸川の道に、橇が並んでいた。今度は、五つ。どの橇にも、黒い丸太が一本ずつ縛りつけてある。谷の樵たちが、汗と湯気を立てながら、綱を肩にかけて引いていた。
シラノは、橇から飛び降りて、凍った地面を踵で踏み鳴らした。
「glǘno vól. esós tórimor.」
どの丸太にも、どこかに割れや傷があった。
エルサンは、倉の前で腕を組んで、橇の列をにらんでいた。倉の老人が、何か言った。エルサンは、長いあいだ黙っていた。それから、倉の戸を開けた。
倉の前と奥に、前の三本と合わせて、八本の丸太が並んだ。
◆
次の朝、二本目の腕木を、どこに立てるかを決めに、綱場へ行った。
ヒルヴァンとウェレルと、シラノ。トカリーニャも、ついてきた。
腕木は、岩に穴を穿って、根もとを差しこんで立てる。新しく穴を穿つなら、硬い岩を、何日も鑿で彫ることになる。
ヒルヴァンは、今の腕木のまわりを、何度も歩いた。崖の縁の岩の割れ目を、足で探っていた。
僕は、今の腕木の、すぐ横を見ていた。
腕木から、二腕ほど離れたところに、四角い穴があった。中には、水が張っていた。表面が、白く凍っている。
綱場に来るたびに、目に入っていた穴だった。ヒルヴァンは乾季のあいだ、そこに綱を浸けて湿らせる。乾いた綱は切れやすいからだ。僕も町に帰るたびに、その水を汲んだ。
僕は穴を指さした。
「pó éso só?」
ヒルヴァンは、穴を見もしないで答えた。
「ílmos snúlvo.」
snúlvo は穴のことらしい。水の穴。ヒルヴァンが子どものころから、たぶん、そのずっと前から、水の穴だったのだろう。
でも、四角い。
僕は、今の腕木の根もとを見た。腕木を差しこんである岩の穴も、四角い。大きさも、同じに見えた。
僕は、ウェレルから桶を借りて、氷を割った。水を汲み出しはじめた。ウェレルが、何をしているんだ、という顔をした。それから、黙って、もう一つの桶を持ってきた。
水の下は、黒い泥だった。何十年、何百年ぶんの、泥と落ち葉と、綱の屑。手で掻き出すと、指がすぐに感覚をなくした。
泥の下で、指先が、何か硬いものに触れた。
石ではなかった。
トカリーニャが、僕の横にしゃがんだ。泥の中に手を突っこんで、指の関節で、その硬いものを叩いた。
こつ。
トカリーニャは、耳を泥に近づけるようにして、もう一度叩いた。それから、顔を上げた。
「gandér.」
硬木。
穴の底に、黒く朽ちた硬木が、ぎっしりと詰まっていた。ヒルヴァンが棒の先でつつくと、表面がぼろぼろと崩れた。でも、芯のほうは、まだ硬かった。
腕木の、根もとだ。
ここに、もう一本、腕木が立っていたのだ。今の腕木と並んで。
ヒルヴァンは、穴のふちにしゃがんだまま、長いあいだ動かなかった。毎年、ここに綱を浸けてきた人だ。
腕木が二本なら、綱も二本。
崖を測ったとき、西の縁から見た東の壁を思い出した。氷の棚から上は、縁から削った段も崩れていた。担いでは上がれない。崖のすそから上がってきた荷も、ここからは綱に乗ったのかもしれない。
下ろしながら、上げていたのかもしれない。この町の、綱場で。
穴は、何も語らない。ただ、碑の二行と、腕木の二本は、数がそろっていた。
◆
朽ちた根もとを掘り出すのに、二日かかった。ヒルヴァンは、それを捨てずに、倉の奥にしまった。
三日目に、穴に、新しい腕木を差しこんだ。シラノと樵たちが、谷から運んできた硬木を一本、腕木の太さに削ってくれた。男たちが綱で引き起こし、穴に根もとを落としこむ。楔を打ちこむ音が、崖の縁に響いた。
腕木が、二本並んで、崖の外の空へ突き出した。
トカリーニャが、新しい腕木の根もとを、指の関節で叩いた。それから、もとからあった腕木の根もとを叩いた。二つの音を、聞き比べるように。
口の端が、ほんの少しだけ上がった。
◆
その次の朝、シラノとトカリーニャは、また谷へ帰っていった。
空の橇を引いて。地面が解ける前に、谷まで戻らなければならない。
シラノは、崖の縁のほうを顎で示した。崖の下に、白いものが溜まりはじめていた。
「lúin tóro nébro, tórimor ín fréiman.」
トカリーニャは、何も言わずに、橇の後ろを歩いていった。道ばたの松の前を通るとき、指の関節で、幹を一度だけ叩いた。
こつ。
僕は、綱場へ行った。
巻き胴に、二本の綱が、逆の向きに巻いてあった。腕木が二本、並んでいた。どちらの綱も、白く凍っていた。
二本目の綱の先には、まだ、何も結んでいなかった。
崖の下の白いものが、少しずつ、這い上がってきていた。
左の一覧から語を選ぶか、上の検索欄に日本語またはローマ字を入れてください。
左の目次から課を選んでください。
左の一覧から選んでください。
高原語で書かれた読み物です。左の一覧から選んでください。
左の目次から話を選んでください。
小説・世界設定・翻訳から見つけた「辞書にない語」の候補です(uv run conlang dict-grow 名前 で作られます)。登録する語を選んでください。同義語として複数選べます。