小説
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綱が凍ってから、フネローラの冬は静かになった。
崖の縁の綱場にはもう誰もいない。巻き胴は歯止めをかけたまま白い霜をかぶっていた。腕木から垂れた綱は撚りの一本一本まで氷に包まれて、ガラス細工みたいに光っていた。風が吹いても揺れない。指で弾くと硬い小さな音がして、それきりだった。
白糸川も岸から白くなっていった。最初は岸の石のまわりに薄い氷の縁ができるだけだった。それが毎朝ひと幅ずつ川の真ん中へ伸びていって、十日もすると流れの音が氷の下にもぐった。耳を澄ますと、氷の下でまだ水がごぼごぼ動いているのがわかる。秋のあいだ町じゅうに響いていた滝の音は、太っていく氷の柱の奥に閉じこめられていった。
町の屋根は板葺きも黒い薄石葺きも、霜で白く縁どられていた。朝になると、どの屋根からも炉の煙が細く上がる。風のない朝はその煙が空の高いところまで、糸を引いたようにまっすぐ伸びていった。
ドゥランドの帳場も冬は閉まる。僕は町にいた。
朝はヒルヴァンと綱場を見回り、昼は木工の老人の作業場で、巻き胴の歯を削る手伝いをする。夜は炉ばたで板の数を見る。
作業場は削りくずと木の脂のにおいがした。老人は僕の削った歯を一つずつ戸口の光にかざして、気に入らないと黙って僕の手に返してくる。三つに一つは返された。指先がかじかんで、小刀の刃がうまく木に食いこまないのだ。老人の指は僕の倍くらい太いのに、刃はすっと木に入っていく。
丸太、七本。綱場まで昇った塩の箱、十六。僕の借り、五十七壺。
その下にもう一つ数がある。
役人の許しは一年だった。印が押されたのはこの前の雨季の終わり近く。次の雨季の終わりで切れる。その一年のうち、丸太を下ろせたのは、秋の終わりのたった七日だった。
七本。
この数を持って、もう一度、あの緑の上着の役人の前に立たなければならない。
板を見ていると、ヒルヴァンが横からのぞきこんだ。何も言わずに炉に薪を足した。火がはぜて、板の上の字が赤く揺れた。
◆
綱が凍ってから十日ほどたったころ、木工の老人の作業場で歯を削っていると、セルヴィーニャが走ってきた。凍った道を白い息を弾ませて。炉に客が来ている、と言った。
客を迎えるときの顔ではなかった。少し硬かった。
僕は小刀を置いて、削りくずを膝から払った。老人は顔も上げずに、行け、と顎をしゃくった。
◆
ドルヴァルの炉の戸口の前に、二人立っていた。
一人はドゥランドの降ろし場で何度か見たことのある役人だった。国交省の、若いほうの役人。襟元から緑の上着がのぞいている。あの緑の上着の役人と同じ色だ。ドゥランドから狩人の小道を歩いてきたばかりで、肩で息をしていた。吐く息が白いかたまりになって、次々に顔の前でほどけていく。靴は凍った泥で灰色になっていた。
もう一人は女の子だった。
僕と同じくらいの年だと思う。背が高い。僕と目の高さがほとんど変わらない。髪を首の後ろで巻いて、骨の留め具で留めていた。大人の女の結い方だ。留め具に灰色のまだらの羽が一本挿してある。ふくろうの羽だろうか。
上着は一枚だった。
生成りの、何も染めていない上着。縁の町の人たちが着ているのと同じ色だった。
都から来た人だと、役人の言葉でわかった。都からわざわざ縁まで来る人が、生成りの上着を着ている。それがなんとなく引っかかった。
同じ小道を半日歩いてきたはずなのに、息は少しも乱れていなかった。頬と鼻の頭だけが寒さで赤い。顔のほかのところはぴくりとも動かなかった。
細い目をしていた。眠そうな目、と言いかけて、違うと思った。眠いのではなくて眩しいのだ。霜と氷の照り返しの中で目を細めている。
その目が僕の頭のてっぺんから足もとまでゆっくり動いた。値札でも探すみたいな見方だった。
それから炉の戸口に出てきたウェレラさんのほうを向いた。
「pá ésa dulána?」
落ちてきた者。おととし、町の人たちは僕のことをそう呼んでいた。僕はもう、ほとんど忘れかけていた。
ウェレラさんは杖に両手を重ねた。背筋を伸ばして、彼女を見上げた。
「híro.」
それだけだった。
流れ星ではない。尋だ。ウェレラさんは僕が落ちてきたころと同じ顔をしていた。皺の深い口もとがきゅっと結ばれたまま動かなかった。
彼女は何も言わなかった。腰に下げた袋から、細く巻いた紙と筆を取り出した。筆の先を小さな墨壺に浸して、立ったまま紙に何か書きつけた。指が細くて、爪の際に墨がしみこんでいた。毎日書いている人の指だ。
ちらりと見えた字は帳場で毎日見ている字だった。
dulana
ヒロ、とは書いてなかった。
◆
ウェレラさんの炉で、役人が用件を話した。
ウェレラさんは炉の北側の一段高い座に座り、役人はその向かいに膝をそろえた。見習いの女の子は炉の端に座った。ヒルヴァンは戸口の近くで腕を組み、壁にもたれていた。炉の火がときどき小さくはぜる。誰も口を挟まなかった。
帳場で聞き慣れた、改まった言葉だった。長い文の中から、知っている語を拾っていく。
「tóra es brándales ilánar.」
灯たちの役所。灯は星のことでもある。星の役所。そんな省庁は日本にない。しいて言えば、文部科学省の国立天文台だろうか。
役人の話は長かった。南。低い。見る。沈む。拾えた語を並べると、南の低いところの星を見に来た、ということらしい。
それから役人は僕のほうは見ずに言った。
「lísan ilanárai dulánais un traimlisái.」
ilanárai は ilána に -ár がついた形だろうか。lís- に -ár で lisár となったように。それなら、ilanárai とでも言ったところか。
セルヴィーニャの袖を引いて、小声で聞いた。
「pó éso traimlisá?」
「plána tráimelar.」
毎年何かを書きつけておく帳面だろうか。そこに流れ星を書くのだ。
役人の話は続いていた。
「sénþar fáirombar tráimelais anlúin, tóra dulána un orénoi.」
ここの人たちの言う流れ星は、空の星のことではない。落ちてきた者のことだ。
百四十年前にも僕みたいな誰かがいたのだ。そして、その年の帳簿に書かれた。
その誰かがどうなったのかを、役人は言わなかった。聞ける空気でもなかった。
今度は僕が書かれるらしい。
なんだそれ、と思った。でも怒る気にはならなかった。おととしの僕は荷として帳面に書かれた。今度は流れ星として年の帳簿に書かれる。書かれ方がだんだん大げさになっていく。
役人が話している間、彼女は膝の上の紙に何か書いていた。僕のほうは一度も見なかった。見ないまま書いていた。
灯たちの役所から来た人。星を見に来た人。
僕は彼女に向かって言った。
「ké éses ilanár?」
筆が止まった。
顔を上げた。僕のほうではなく、役人のほうを見た。
炉ばたがしんとした。薪のはぜる音が急に大きく聞こえた。
セルヴィーニャが僕の袖を引いた。ウェレラさんは目を閉じていた。
しまった、と思った。耳の後ろが熱くなった。
帳場で、上着を三枚重ねた商人に kráil と言って、怒らせたことがある。上の人には言い方を変えなければいけない。わかっていたはずなのに、同い年くらいの女の子だと思ったとたん、口が勝手に崩れた。
生成りの上着だろうと、天文台から来た人だ。ここでは言い方を変えなければいけない相手だった。
答えたのは本人ではなく役人だった。
「ésa kloimár brándales ilánar.」
答えは僕の頭の上を通っていった。ウェレラさんに向けた言葉だった。
細い指がまた紙の上に戻った。筆が動いた。何を書いたのかは見えなかった。
あとでセルヴィーニャが小声で言い直してくれた。
「eséla ilanár?」
ésa が eséla になっている。tás はどこにもない。あなたは、とは聞かずに、あの人は、の形で聞くらしい。-él- は知らない形だった。
◆
役人がドゥランドへ帰るとき、僕は板を持って追いかけた。
町の日の出側の外れ、狩人の小道の口で追いついた。小道の石に白い霜がはりついていて、役人は一歩ずつ足もとを確かめながら歩きだしたところだった。
何を言えばいいのか、うまく言葉にならなかった。目上の人に許しのことをどう尋ねればいいのか。
僕は黙って板を差し出して、丸太の数のところを指で示した。
役人は板をのぞきこんだ。
「nél.」
それから小道の先のドゥランドのほうへ目をやった。
「luuméla.」
誰がとは言わなかった。でもわかった。この数はあの緑の上着の人の目にとまる。
役人は板を僕に返して、小道を日の出のほうへ歩いていった。緑の襟が岩の陰に見えなくなるまで、僕は小道の口に立っていた。
板が冷たかった。七、と書いた字の上を、親指で一度こすった。こすっても数は変わらない。
◆
天文台の見習いはエルサンの炉に泊まることになった。
寄り合いの倉をあずかる、町でいちばん大きな炉だ。ほかの炉には都の人を泊められるほどの寝床がない。エルサンは役人の前ではかしこまって頭を下げていた。役人が小道へ去っていくと、炉の戸口で口の端をぐいと下げた。厄介なのを押しつけられた、という顔だった。
名前は聞かなかった。
聞き方も知らなかった。目上の人にはあなた、とも言えない。名を聞いたところで、どうせ口にはできない。
次の日、井戸端の女たちが、エルサンの炉のほうを見ながら小声で話していた。桶の縁に張った薄い氷を手の甲で割りながら、ちらちらと目だけを向けている。
「aurilanár...」
lisár に au- がついて aulisár。帳場で、若い書記たちがレウマンさんをそう呼ぶ。ilanár の前では、au- が aur- になるらしい。aurilanár。
町の人たちは彼女をそう呼んでいた。
◆
その夜、白い月に輪がかかっていた。
月のまわりにぼんやりと白い輪が大きく丸く浮かんでいる。冷たい夜で空気が針みたいに細かく光っていた。赤い月はまだ昇っていなかった。
僕は炉の戸口でそれを見ていた。
月に暈がかかると雨になる。どこで聞いたのかは覚えていない。空の高いところに薄い雲が広がっていると、月の光がにじんで輪になる。そういう雲が出ると天気が崩れる。
この国の冬なら、雨ではなく雪だ。
炉の中から、エルサンの声が聞こえた。倉に預かっている八本目の丸太のことで、ヒルヴァンと話しに来ていたのだ。
僕は軽い気持ちで言った。
「dórel, tóra hílva.」
炉の中が一瞬静かになった。
それからエルサンが大声で笑った。
「ké éses ilanár, orvél víres lúdro?」
まわりの人たちも笑った。セルヴィーニャまで、口を押さえて笑っていた。ヒルヴァンだけが笑わずに、黙って火を見ていた。肩が一度だけ揺れた気がした。
何がおかしいのか、すぐにはわからなかった。
セルヴィーニャが笑いながら教えてくれた。
天気を言い切ってはいけない。明日のことは推量の形で言う。toréla。来るだろう。tóra と言い切っていいのは、天文台の ilanár か、そうでなければはったり屋だけ。昔からの言い回しなのだそうだ。
ilanár はやっぱり本当にある語だった。星を見る人。天文学者みたいなものなのだろう。
それに toréla の -él-。昼間、セルヴィーニャが言い直してくれた eséla と同じ形だ。言い切らずにだろう、と言う形。目上の人にはこの形で聞くのだ。
なるほど、と思った。日本語でも、天気予報のお姉さんは「雪が降ります」とは言わない。「雪の降るところがあるでしょう」と言う。
戸口の外で足音がした。凍った地面を踏む、乾いた音だった。
天文台の女の子だった。エルサンの炉へ帰る途中で、ドルヴァルの炉の前を通りかかったのだ。
立ち止まっていた。
笑い声がすっと引いた。
月の輪を見上げていた。見上げたまま言った。
「na víran ilanárai sérin.」
それからほんの少しだけ間をおいた。
「toréla hílva.」
笑う人はもういなかった。
それきり何も言わずに、暗い道をエルサンの炉のほうへ歩いていった。灰色の羽の先が月明かりの中で一度だけ白く光った。
僕は戸口に突っ立っていた。
怒られたのだと思う。言い方がなっていない、と。
でも雪は来る、とも言われた。
僕と同じことを彼女も月の輪から読んだのだ。
◆
朝、戸口を開けると雪だった。
石の原が真っ白になっていた。崖の縁の綱場の腕木にも、巻き胴の上にも、雪がこんもりと積もっていた。空は低く灰色でまだ細かい雪が落ちてきていた。音がなかった。雪が町じゅうの音を吸いこんでいた。
踏み出すと、くるぶしまで沈んだ。靴の中にすぐ冷たいものが入ってきた。屋根という屋根が白くふくらんで、町はひと晩で丸くなっていた。
作業場へ行く途中、エルサンとすれ違った。
エルサンは僕の顔を見て、にやりとした。
「ilanár!」
天文学者、だそうだ。ひと晩で出世した。
エルサンの炉の戸口に、彼女が立っていた。目を細めて、白い原を見渡していた。肩にも髪にも雪が積もりかけているのに、払おうともしない。
僕に気づいた。
何も言わなかった。腰の袋から紙を出して、何か書きつけた。
それから炉の中へ入っていった。
◆
雪は二日降った。
三日目の夜、空が晴れた。
晴れた夜は冷える。息を吸うと、鼻の奥がつんと痛くなる。空気が澄みきっていて、空いっぱいに星が出ていた。地球の空では見たことのない数の星。積もった雪が星明かりを照り返して、夜なのに足もとが青白く見えた。
僕はドルヴァルの炉を出て、崖の縁へ向かった。
刻み目は落ちてきた次の朝から、ずっと続けている。最初は毎朝入れていた。帳場に通うようになって朝が慌ただしくなってからは、寝る前に入れている。
最初は炉の脇に転がっていた薪の切れ端だった。三十を超えたころから、白い月が満ちる夜に新しい切れ端に替えるようにした。今では二十いくつの切れ端が、紐で束になっている。十ごとに長い刻み。運び人の頭の数え棒と同じやり方だ。
炉の中で刻んでもいい。でも晴れた夜は崖の縁で刻むことにしていた。崖の縁から見下ろすと、夜の泥の原にも、ところどころに小さな火が灯っている。ダーロルの人たちの火だ。あの火のどこかに、縁商人の女が帰っていく家がある。
雪を踏んで歩くと、きゅっ、きゅっ、と鳴った。綱場の前を過ぎると、雪の上に先に誰かの足跡がついていた。
崖の縁の石の上に、人が立っていた。
天文台の見習いだった。
南を向いていた。崖の下の、泥の原のさらに向こうの、空と泥の原の境目を見ていた。南の低い星を見に来たのだろうか。北の都からでは見えない星なのかもしれない。
紙も筆も持っていなかった。
ただ立っていた。手を体の脇に下ろしていた。息だけが白く、ゆっくりと顔の前に流れていた。
変だな、と思った。見るために来たのなら、見たものを書き留めるはずだ。都の人は何でも書く。昼間は僕の背丈まで書いていた。
声をかけるのはやめておいた。少し離れた石の雪を手で払って座り、束から今夜の切れ端を抜き出した。石の冷たさが尻から背中まで上がってきた。小刀の刃を当てて、刻み目を一つ入れた。
こつ、と小さな音がした。
彼女が振り向いた。
僕の手の中の切れ端を見た。それから膝の上の束を見た。
「ké rímbes ilánais?」
声が硬かった。昼間よりもずっと硬かった。
星を?
僕は手の中の切れ端と空とを見比べた。星なんか数えていない。数えきれるはずもない。
僕は切れ端を持ち上げて見せた。
「na rímbim ilánais. rímbim órelais.」
細い目が僕の手の中の切れ端の上で長いあいだ止まっていた。
それから空のほうへ目をやって、低い声で言った。節のついた、古い言い方だった。
「mé rimbésa ilánais.」
mé に、旧道の碑と同じ -ésa の語尾。決まりの言い方だ。
星を数えてはいけない。この国にはそういう決まりがあるらしい。
僕はさっき、空を見上げながら刻み目を入れていた。彼女の目には星を数えているように見えたのかもしれない。
背中が少し冷たくなった。知らないうちに決まりを破りかけていたのだとしたら、晴れた夜ごとに崖の縁でそれをやっていたことになる。
泥の原の上を風が渡っていった。崖の下から、冷たい空気がゆっくり上がってくる。ふくろうの羽が小さく揺れていた。
「pómbar órelais?」
僕は束の刻み目を頭の中でもう一度確かめた。昨日まで六百九十。今夜、一つ足した。
「sóur sénþarul réumombar ín.」
細い目が少しだけ見開かれた。
しばらく黙っていた。唇がかすかに動いていた。何かを数えなおしているような動き方だった。
「lísim órelan un traimlisái.」
僕が落ちてきた日だ。
年の帳簿の、流れ星のところに書く日。町の人に聞いてもおととしの冬の半ばごろ、としか言えない日。僕の束になら、それが一日の狂いもなく刻んである。
彼女は顔をそむけた。南の空のほうへ。
「dórel, tór, kráilin snímbo.」
それだけ言って、石の上から下りた。雪を踏む音がエルサンの炉のほうへ遠ざかっていった。
僕はしばらくぽかんとしていた。
この束から、僕が落ちた日を割り出すつもりなのだ。切れ端は白い月の巡りごとに替えてある。それを天文台の暦と突き合わせれば、何の月の、何の旬の、何日目かがわかる。
頼み方というものがある、と思った。命令形かよ。こっちは三人称で推量で、いらっしゃるでしょうか、なのに。
でもなぜか腹は立たなかった。
僕は束を紐で結び直した。かじかんだ指で結び目を作るのに、三度やり直した。今夜で六百九十一。明日の夜は六百九十二。
空を見上げた。星が数えきれないほど出ていた。数えてはいけないらしい星。
そのかわりに僕には日がある。
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