小説
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次の朝、僕は数え棒の束を抱えて、エルサンの炉へ行った。
雪は道の両側に寄せられて、真ん中だけが踏み固められていた。朝の光が低く差して、雪の面に僕の影が長く伸びる。束を胸に抱えていると、切れ端どうしが上着の中でかたかたと鳴った。
町でいちばん大きな炉だ。炉ばたが二つあって、奥のほうはふだんは寄り合いのときにしか使わない。天文台の女の子はその奥の炉ばたにいた。
奥の炉ばたは天井が高く、梁が煤で黒く光っていた。火は小さく熾してあるだけで、部屋の隅まではぬくもりが届かない。息を吐くと、まだうっすら白かった。
床に生成りの布が一枚広げてあった。
布の向こうに座って、僕を待っていたらしい。夜通し起きていたのだろう。目の下が少し青い。それでも背筋はまっすぐだった。膝の上で重ねた手だけが、寒さで少し赤くなっていた。
束を差し出すと、顎で布を示された。並べろ、ということらしい。
僕は紐をほどいて、切れ端を一本ずつ布の上に並べた。
いちばん古い切れ端は、黒ずんで角が丸くなっていた。炉の脇に転がっていた薪の切れ端だ。刻み目が三十あまり、ひと筋に並んでいる。最初のほうの刻み目は浅くて、間隔もばらばらだった。落ちてきたばかりのころの僕の手だ。
あのころは何日たったかを数えていないと、自分がどこにいるのかもわからなくなりそうだった。刻み目の一つ一つがそのときの僕にはつかまる場所だった。
二本目からは白い月が満ちる夜に替えた切れ端になる。刻み目は二十九か三十。十ごとに長い刻み。後ろへ行くほど刻み目は深く、間隔もそろっていく。
二十四本。
布の端から端まで、切れ端が並んだ。こうして並べてみると、思っていたより短かった。二年近くが腕を広げたくらいの幅に収まっている。
エルサンの孫が戸口の陰からのぞいていた。
◆
彼女はいちばん古い切れ端を手に取った。
指先で刻み目を一つずつなぞりはじめた。唇がかすかに動いている。声は出さない。
一本なぞり終えると、紙に何か書いた。二本目を取った。なぞった。書いた。
ときどき手を止めて、目を閉じた。そのたびに何か長い言葉を小さく唱えた。節のある、歌のような言い方だった。同じ節が何度もめぐってくる。
月の名前を順に唱えているのかもしれない。帳場の帳面の日付のところにも、名前らしい語が書いてある。あれが月の名前なら、彼女の頭の中には、去年とおととしの月が、名前つきで並んでいるのだ。
僕は布の手前で膝を抱えて待った。床の冷たさが少しずつ尻から上がってくる。孫は一度引っこんで、また顔を出した。エルサンに追い払われたらしく、次に出てきたときは粥の椀を二つ持っていた。椀は布の脇に置かれて、片方は手をつけられないまま冷めていった。
二十四本目までなぞり終えるのに、昼までかかった。
最後に紙に一行を書きつけた。高原の数字がいくつか並んでいた。いちばん最後は4だった。
それが僕の落ちた日なのだと思う。何の月の、何の旬の、何日目。
彼女はその一行をしばらく見ていた。それから紙を巻いた。
自分の落ちた日が誰かの紙に一行で書かれて、くるりと巻かれる。それを目の前で見ているのは、なんだか変な気分だった。
◆
僕は並んだ切れ端を眺めていた。
二十九。三十。二十九。二十九。三十。
白い月が満ちる夜から次に満ちる夜まで、二十九日か三十日。ならすと、二十九日半より少し短いくらい。
切れ端のうちの二本には、刻み目のほかに、斜めの十字が一つ刻んであった。年の始まりの夜に、僕が入れた印だ。十の灯が昇って、ウェレラさんが家の者の名と年を唱えた夜。
一つ目の十字から、二つ目の十字まで。
頭の中で刻み目を足していった。途中で追いつかなくなって、炉の灰をひとつまみ借りて、床の板に数を書いた。帳場でいつもやっている、紙の盤の並べ方だ。指先が灰で白くなった。
三百六十二。
この国の一年は三百六十二日。地球の一年より、三日短い。
白い月の巡りで割ってみる。十二回巡ると、三百五十三日足らず。一年には九日ほど足りない。
九日。
次の年も九日。その次の年も九日。
三年で二十七日。白い月の巡り、ほとんど一つぶん。
うるう年を思い出していた。地球の一年は三百六十五日と四分の一だから、四年に一度、一日を足す。あれと同じだ。この国では余りの九日が三年でひと月ぶんにたまる。だから三年に一度、月を一つ足せばいい。
中学の理科で習ったことが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
顔を上げると、彼女が僕の手もとを見ていた。灰の数字を見ていた。
何をしているのか、とは聞かれなかった。僕は灰の数字を指でたどりながら言った。推量の形で。言い切ってはいけないことは、もう知っている。
「téir tráimelais, snondéla brándal ilánar ín sílaran.」
返事はなかった。
顔色が変わっていた。青かった目の下がさらに白くなった。
炉の火が小さくはぜた。戸口の陰の孫が息を止めたのがわかった。
長い沈黙のあとで、低い声が返ってきた。
「tráimelei sé, ké snondéla brándal ilánar sílaran?」
僕に聞いているのだ。今年、月を足すのかどうか。
僕にわかるわけがない。前に月を足したのがいつなのか、知らない。
両手で切れ端を一本つけ足す身ぶりをした。
「pómbar tráimelais anlúin?」
「téir tráimelais anlúin.」
それなら、そのあとに九日、九日、九日とたまって、今年の終わりで二十七日。白い月の巡りに二日ほど足りない。
足すには少し早い。でも来年まで待てば三十六日。ひと月より、七日も余ってしまう。
七日の余りより、二日の足りないほうが、ずれは小さい。
灰の上で二と七の字を並べて書いた。並べてみれば、答えははっきりしていた。
「tráimelei sé, snondéla.」
細い目がすっと、さらに細くなった。
「mé vír sérin.」
それから布の四隅をつまんで、切れ端ごと包みこんだ。包みを膝に抱えて立ちあがり、奥の部屋へ入っていった。
戸が閉まった。
僕は灰の数字の前に座ったままだった。
戸口の陰でエルサンの孫が目を丸くしていた。
束、返してもらってないんだけど。
◆
帰り道、白糸川の凍った岸を歩きながら、考えていた。
川は一面の白でどこが岸でどこが流れなのか、もう見分けがつかなかった。ところどころ、氷の割れ目から黒い水がのぞいていて、そこだけ細く湯気のようなものが立っていた。氷の下で水の音がくぐもって聞こえた。
怒らせたのだと思う。でも何に怒ったのかがわからなかった。数え方が違っていたのなら、違う、と言えばいい。彼女はそうは言わなかった。
今年、月を足すかどうか。
天文台の人なのに、なぜ僕に聞いたのだろう。
天文台の中でもまだ決まっていないのかもしれない。
だとしたら、僕は口を出してはいけないところに、灰だらけの指を突っこんだのかもしれなかった。
◆
その夜、僕は新しい薪の切れ端に、刻み目を一つ入れた。
束がないので一本目からやり直しだ。いや、やり直しではない。刻み目は一つでも数は六百九十二だ。
手の中の切れ端は軽かった。二十四本の束の重さに、いつのまにか慣れていたのだと思う。
崖の縁には今夜も彼女がいた。南を向いて立っていた。紙も筆も持たずに。
月の光が雪に跳ね返って、立っている姿の輪郭だけが青く浮いて見えた。羽の先が風でわずかに震えていた。
僕は少し離れた石に座った。切れ端に刻み目を入れた。こつ、と音がした。
振り向かなかった。
僕は今夜の数を言った。
「sóur sénþarul réumombar dáu.」
返事はなかった。
しばらくして、彼女が腰の袋から何かを取り出した。後ろ手に僕のほうへ差し出した。
僕の束だった。
受け取って紐をほどいた。いちばん新しい切れ端を出して、月明かりにかざした。
刻み目が一つ増えていた。
僕のではない刻み目だった。僕より深く、まっすぐに刻んである。今夜のぶんだ。
手もとの新しい切れ端と、束の切れ端を見比べた。どちらにも今夜の刻み目がある。
同じ日を二人で一つずつ刻んでいた。
なんと言えばいいのか、わからなかった。わからないまま、束を紐で結び直して、膝の上に置いた。
最後までこちらを振り向くことはなかった。
◆
それから晴れた夜には崖の縁で数を言うようになった。
六百九十三。六百九十四。六百九十五。
返事はない。でも僕が数を言うまで、彼女は崖の縁から帰らない。
七、八日して、吹雪が来た。
三晩、戸口から外へ出られなかった。北からの風が石の原の雪を巻き上げて、隣の炉の灯も見えない。戸の隙間から細かい雪が吹きこんで、朝には戸口の床に白い筋ができていた。屋根の上を風がうなりながら通っていく。ウェレラさんは炉の火を絶やさないように、夜中に何度も起きて薪を足していた。僕は炉ばたで刻み目を入れた。崖の縁へは行かなかった。行けなかった。彼女も行かなかっただろう。
四日目の夜、空が嘘みたいに晴れた。
風がやんだあとの空気は、しんと固まっていた。吹き寄せられた雪が石の原のあちこちに波の形で凍りついている。
崖の縁へ行くと、彼女はもう来ていた。吹き寄せられた雪の上に、足跡が一筋ついていた。
僕が石に座って、切れ端を出して、口を開きかけたところで、南を向いたまま、声がした。
「nél sénþarul téir.」
僕は切れ端を持ったまま固まった。
七百三。合っている。
吹雪の三晩、僕はここに来なかった。数を言っていない。それでも数を落とさなかった。僕の束を見ずに自分で、一日ずつ。
今年の終わりまで、あと何日あるのか。月を足すのか、足さないのか。
彼女も日を数えはじめたのだ。
僕は刻み目を一つ入れた。いつもより、少しだけ深く刻んだ。
昼間はたいてい寝ているらしい。エルサンの孫が教えてくれた。昼過ぎに起きてきて、黙って粥を食べて、また寝る。夜になると、崖の縁へ行く。エルサンは都の人はわからん、と首を振っているそうだ。
崖の縁で僕の高原語は毎晩直された。直されるのは決まって数の言い方だった。運び人の癖で縮めて言うと、都の言い方で長く言い直される。言い直すと、わずかにうなずく。毎晩の数をどこかに書きためているのかもしれない。書くなら、崩れた形では困るのだろう。
うなずくのはほんの指一本ぶんくらいだ。暗いと見落とす。だから僕は言い直すたびに、横顔のほうをじっと見ているようになった。
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