第28話 その夜を見つける

霧は町を白く塗りつぶしたまま動かなかった。

戸口を出ると二歩先が見えない。井戸の縄のきしみも隣の炉の話し声も、綿でくるんだようにくぐもって、どこから聞こえるのかわからなくなる。毛皮の上着の毛先に、細かい水の粒がびっしりついた。

朝なのか昼なのかも外を見ただけではわからない。白い明るさがいつまでも同じ調子で続いて、夕方になると、それが少しずつ灰色に沈んでいく。屋根の板からは一日じゅう水が垂れていた。石の土台には黒いしみが這い上がって、戸の木は湿気を吸って重くなった。

去年と同じだった。蒸し小屋の煙は上がらない。誰も爪を切らない。外では誰も人の名前を呼ばない。おととしはわけもわからず口をふさがれたけれど、今年は僕も黙っていた。

霧が来たその日の夕方、フレウレラさんがメウルの機場から帰ってきた。毛織りの包みを背負って、霧の中からふいに戸口に現れた。髪にも眉にも細かい水の粒が光っていて、包みを下ろすと肩から湯気が立った。ウェレラさんが黙って炉の火を足した。

その夜の炉ばたはフレウレラさんの話でにぎやかだった。メウルの機場で何を織ったか。誰の婚礼の布だったか。冬にどこかが凍ったという話。半分もわからなかったけれど、ウェレラさんがうなずきながら聞いているので、いい話なのだろうと思った。

フレウレラさんは話すとき、手がよく動く。糸を張る手つき、杼を通す手つき。言葉がわからなくても、機の前に座っている様子が目に浮かんだ。

話の途中で一語だけ耳に引っかかった。

「grúunan ilanárai天文学者たちが怒っている.」

フレウレラさんは都から来た商人に聞いた話だ、という手つきをした。それから指を一本立てて、首をかしげてみせた。

「ín sílar?」

月を一つ足すのか、足さないのか、ということだろう。都の天文台で揉めているらしい。エルサンの炉の奥にいる見習いが、どうして僕に今年のことを聞いたのか、少しわかった気がした。

都の偉い人たちが決められずにいることを、彼女は一人で崖の縁まで持ってきたのかもしれない。灰の数字を見たときのあの顔色を思い出した。

夜になっても星はなかった。

◆

崖の縁へは行かなかった。

霧の夜の崖の縁は足もとと空の境目がわからない。ヒルヴァンにも止められた。崖のほうへ顎をしゃくって、首を横に振る。それだけで十分だった。

天文台の女の子はあれからずっとエルサンの炉の奥にいるらしかった。見るものがないのだ。

霧が来て四日目の夕方、僕はエルサンの炉の戸口に立っていた。

毎晩数を言え、と言われたのは崖の縁でだった。崖の縁でなければいけないとは言われていない。

ここまで来るのに、家々の石の土台を手でたどって歩いた。指先がまだ湿って冷たい。

戸口の脇でエルサンが鼻を鳴らした。奥へ顎をしゃくった。勝手にしろ、ということらしい。

奥の炉ばたは手前より暗かった。火は小さく、壁に掛けた布の影が揺れている。

彼女はそこで膝を抱えていた。

炉の火を見ていた。いつもまっすぐな背中が少し丸い。細い目の下の青いのが前より濃い。昼に眠れないのだと思う。夜に起きていても見るものがない。膝の脇に巻いた紙が置いてあったけれど、紐はほどかれていなかった。

僕は炉ばたの端に座った。

「nél sénþarul sóurombar nél七百六十七.」

炉の火から目は上がらなかった。でも小さくうなずいた。

それで十分だった。僕は刻み目を入れた切れ端を膝の上でしばらく転がして、それから帰った。

◆

それから霧の夕方はエルサンの炉の奥へ行くようになった。

三日続けたところで、夕飯の席でセルヴィーニャがにやにやしながら僕の顔をのぞきこんだ。

「nórai ínin毎晩?」

ウェレルが粥を噴きそうになった。むせて、胸を拳で叩いている。フレウレラさんは何も聞こえなかったような顔で、鍋をかき回していた。

顔が熱くなったのは炉の火のせいだけではなかったと思う。数を言いに行っているだけなのに。説明できる言葉を僕は持っていないし、持っていても、たぶん信じてもらえない。

ウェレラさんだけが笑わなかった。僕が戸口で毛皮の上着を羽織ると、背中に声がかかった。

「mé hál þelán名前を呼ぶな.」

霧の夜道でうっかり誰かの名を呼ぶな。そう言われたのだと思う。毎晩、出がけに同じことを言われた。振り向くと、ウェレラさんはもう炉のほうを向いて、鍋の蓋を直していた。

エルサンの孫は僕が来ると戸口から奥へ走っていって、何か知らせるようになった。知らせなくても奥の炉ばたにいる人は一人しかいない。

◆

五日目の夜、彼女のほうから口を開いた。

炉の灰を指でならしはじめた。細い指が灰の上を何度も往復して、表面が紙のように平らになっていく。平らになった灰の上に何か書くのかと思った。書かなかった。かわりに低い声で、決まった調子の言葉を唱えはじめた。

「lím tráimelais anlúin, sán ín sílarau五年前、二つの月が一つになった.」

sílarau二つの月 の -au は、帳場で dáu sénþarou と言うときの -ou と同じだ。二つのものにだけつく形。月はいつも二つだから、この形で言うのかもしれない。

少し間をおいて、続いた。

「ombár ín tráimelais anlúin, sán ín sílarau十一年前、二つの月が一つになった.」

同じ形の文が数だけ変えて何度も続いた。

「ombár sóur tráimelais anlúin.」

「dáumbar dáu tráimelais anlúin.」

「dáumbar nél tráimelais anlúin.」

どの年のあとにも二つの月が重なった、が続く。

一つ唱えるたびに膝の上で指を折っていた。何かの年の数え方で覚えているのを、頭の中で今から何年前かに直しているのだ。年の帳簿には流れ星だけでなく、月が重なった年も書いてあるのかもしれない。

目は閉じていた。炉の火が瞼の上で赤く揺れている。暗記したものを一つも落とさないように引き出している顔だった。

五つ唱え終わると、彼女は平らにならした灰を、僕のほうへ押しやった。

「rím.」

灰をならしたのは自分で書くためではなかった。僕に数えさせるためだった。刻み目から一年の日数を出したのを、彼女は目の前で見ている。

僕は灰の端に指で数を並べていった。

五。十一。十六。二十二。二十七。

あいだは六、五、六、五。

ほとんど同じ間隔で繰り返している。いちばん新しいのが五年前。間が五か六なら、次は今年か来年だ。

灰の上の数字を見ながら、少し背筋が伸びた。テストの問題を解いているのとは違う。答えがまだ、どこにも書いていない。

声が一度だけ止まった。

ずっと古い年だった。指を何度も折り直していた。

「téir sénþarul ánþombar tráimelais anlúin, sán ín sílarau三百八十年前、二つの月が一つになった.」

いつもの形がそこで終わらなかった。

「áuro ílmo un dáloroi下の国で水が昇った.」

ほかの年にそんな続きはなかった。

炉の中で薪がはぜた。唱える声はそこで低く切れて、しばらく戻ってこなかった。

それきり、唱えるのは終わった。

◆

僕は灰の上に丸を二つ描いた。大きな丸と、小さな丸。

重なるというのは地球なら日食みたいなことだろうか。月が太陽の前を横切って隠す。前にあるほうが手前にある。

この世界の二つの月なら、どっちが前に来るのだろう。

大きいほうの丸と小さいほうの丸を、指で交互に示した。彼女は灰の丸を指ささなかった。手のひらを上に向けて、大きい丸の上に差しかけた。

「álmar.」

それから小さい丸の上に。

「rúsil.」

あの二つの月にも名前があったのだ。二年も見上げてきて、僕はずっと白いのと赤いのとしか呼んでいなかった。

「rúsil?」

僕が繰り返すと、口の端が少しだけ下がった。

「sílar dáloros下の国の月.」

なぜ口の端を下げたのかは、わからなかった。

僕は灰の上の二つの丸を見ていた。

赤い月は速い。夜のうちに空を目に見えて動いていく。白い月はゆっくりだ。

人工衛星は低いところを回るものほど速い。月はずっと遠いから、ひと月かけて一回りする。近いものほど速く回る。

それなら、赤い月は白い月より近い。近いほうが手前を通る。重なる夜には赤い月が白い月の前を横切って隠すはずだ。

僕は言葉を探した。

「rúsil, trúin赤い月は近い. álmar, lóuvan白い月は遠い.」

それから灰の上で、小さい丸を大きい丸の手前に重ねてみせた。空の上から見下ろせば、近いほうが下になる。

「ésa rúsil du álmarei赤い月は白い月の下にいる.」

細い目が灰の上の丸を見ていた。長いあいだ何も言わなかった。

笑われるかと思った。地球の理屈でここの空のことを言い切ってしまった。

笑わなかった。

下の国の月が本当に下にいる。

腰の袋から細く巻いた紙を出した。筆の先を墨壺に浸して、何かを書きつけた。筆は迷わずに動いて、短い一行で止まった。

彼女が僕の言ったことを書くのは、初めてだった。

◆

僕はうれしくなって、口が軽くなった。

次の重なりは今年か来年。間の年をもっと集めれば、もっと絞れるかもしれない。白い月と赤い月の巡りの日数がわかれば、夜まで言い当てられるかもしれない。

胸に手を当てた。名乗るときと同じように。

「ráinimor nóranその夜を僕たちで見つける.」

「mé þón. éso nébro霧だ.」

鋭い声だった。

僕は口を開けたまま固まった。

mé で止められた。þón が何なのかはわからない。でも止められたのは今言ったことだ。胸に手を当てて、まだ来ていない夜のことを言い切った。

天気を言い切って笑われたときと、似ている。でもあのときは笑われた。今のは本気で止められた。

彼女の目は僕ではなく、戸口のほうを見ていた。外の白いものが入ってきていないか、確かめるような目だった。

霧の中では胸に手を当てて先のことを言い切ってはいけないらしい。名前を呼んではいけないのと、同じ種類の決まりなのかもしれない。

灰の上の丸はもう手のひらで消されていた。

帰り道、霧の中で胸に当てた手を何度か開いたり閉じたりした。悪いことをしたのかどうかも、わからなかった。

◆

霧はそのあとも晴れなかった。

冬のあいだ、谷からの橇は何度も来た。雪が緩んで橇が使えなくなる前の日まで来た。来るたびに僕は倉の前で丸太を一本ずつ数えて、刷った証文の枠に書き入れた。霧が来たときには倉に入りきらない丸太が綱場の脇にまで積んであった。

霧の季節は帳場も綱場も止まる。そのあいだに僕たちにはやっておくことがあった。

雨季の終わりで許しが切れる。

ある晩、ドルヴァルの炉ばたに、ヒルヴァンとエルサンと倉の老人が集まった。大人が四人も炉を囲むと、炉ばたは急に狭くなる。濡れた毛皮のにおいと、炉の煙がこもった。僕は板を炉の明かりの前に立てた。

丸太、七本。綱場まで昇った塩の箱、十六。倉と綱場で秋を待つ丸太、二百本近く。

エルサンが板をのぞきこんで、鼻を鳴らした。

「nél báronul!」

一年かけて、七本。数だけ見れば、そう言われてもしかたがない。

ヒルヴァンは何も言わずに、板の下の空いたところを指でとんとんと叩いた。それから低い声で一言だけ言った。

「dáu sénþarou.」

来年の板のここには二百と書く、ということだろう。この秋、倉と綱場の丸太が崖を下りれば。

七本と二百本。その二つを並べただけでは、緑の上着の役人は印を押さないと思う。この前の雨季、彼の前で数を述べたとき、決め手になったのは数そのものではなかった。書かれたもの。念押しのついた数。碑の字。

僕は腰の袋から、一枚の紙を出した。木工の老人と刷った、空欄の証文だった。冬じゅう橇で届いた丸太の預かりは、一本残らずこの紙で書いてある。

エルサンは字が読めない。それでも紙を手に取って、刷った線と僕の書いた字を見比べていた。どこまでが彫った字で、どこからが手で書いた字なのか、指でなぞって確かめている。太い指が刷った線の上では迷わずに滑り、手書きの字のところで少し止まった。

倉の老人がぽつりと何か言った。昔の旧道の荷札がちょうどこんなふうだった、というような話だったと思う。

許しをもらいに行くとき、この紙を持っていく。それがその夜決まったことだった。

ヒルヴァンが立ち上がるとき、僕の肩に一度だけ手を置いた。重い手だった。

◆

霧の夜は相変わらずエルサンの炉の奥で数を言った。彼女はうなずき、ときどき重なりの年を唱え、僕は灰に間を並べた。五と六がほとんど交互に続く。たまに十一。曇っていて見えなかった年なのだろうか。

灰はそのたびにならされて、そのたびに消された。数字は灰に残らない。僕の頭と、あの巻いた紙の中にだけ残っていった。

◆

霧が来て十九日目の夜だった。

戸口の外が急に騒がしくなった。

隣の炉の子どもが何か叫びながら走っていく。どこかで戸が次々に開く音がした。

僕は戸口から顔を出した。

頬に当たる空気が違った。湿ってはいるけれど、軽い。

霧が薄くなっていた。見上げると、白いものの切れ間に黒い空がのぞいていた。そこに一つ。もう一つ。

星だった。

十九日ぶりに見る星は、思っていたよりずっと小さくて、ずっと鋭かった。

町じゅうの炉で火が高く焚かれはじめた。戸口の前に薪を積んで、火を大きくする家もあった。霧の切れ目の空へ向かって、火の粉が昇っていく。ウェレラさんが戸口の前で手のひらを上に向けて、空へ差し上げていた。

あちこちで笑い声が上がった。子どもたちが火のまわりを跳ね回り、大人は空を見上げたまま動かない。薄い霧に火の明かりが映って、町全体がぼんやり橙色に光っていた。

霧の途中で星が見えた夜は、こうして祝うらしい。

僕はエルサンの炉のほうへ走った。途中で足を止めた。

石の原の真ん中に、彼女が立っていた。

霧の切れ間のわずかな星を見上げていた。目を細めずにまっすぐ見開いていた。十九日ぶりの星だった。

喉が白く、まっすぐに空へ伸びていた。息をしているのかどうかもわからないくらい、動かなかった。

僕が近づくと、空から目が下りてきた。

「þón.」

mé のない、þón。

霧の中で止めたことを、星の下でしろと言っている。

心臓が一つ大きく打った。何をさせられるのか、本当のところはわかっていない。それでもここで引っこめたら、あの夜の言葉ごとなかったことになる気がした。

僕は胸に手を当てた。あの夜と同じように。

「ráinimor nóranその夜を僕たちで見つける.」

彼女は何も言わなかった。うなずきもしなかった。ただ、もう一度空を見上げた。

霧の切れ間はもう閉じはじめていた。星が一つ、白い中へ沈んだ。

町じゅうの火の粉が霧の切れ間の星のほうへ昇っていった。

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