小説
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冬のさなかの、地面が固く凍っている朝だった。
息を吐くと白いかたまりになって、しばらく顔の前に浮いている。踏み固めた雪が靴の下できゅっと鳴った。空は晴れているのに日の光に温かさがない。屋根の板の端から下がったつららが、朝日を受けて青く光っていた。
白糸川沿いの道を橇の列が下りてきた。
音のほうが先に来た。凍った雪の上を橇の滑り木がこすっていく、ざらざらと長い音。それに男たちの掛け声が混じった。
先頭で綱を引いているのは、見上げるほど大きな男だった。毛皮にくるまって、ひげを白く凍らせている。シラノだ。森で会ったときと同じで、一歩ごとに雪が深く沈む。後ろに樵が四人。橇は三台。どの橇にも黒い丸太が縄でくくりつけてあった。
いちばん後ろの橇の脇を、小柄な人影が裸足で歩いていた。
山猫の毛皮の頭巾。腰には濃い緑の、木の皮を染めた帯。
ティウレラだった。
足の裏は凍った道にぺたりとついている。見ているこっちのほうが冷たくなる。本人は平気な顔で、頬だけが赤かった。
町の広場で橇が止まると、シラノはいちばん後ろの橇の丸太を、手のひらでばんと叩いた。
「kéela tiuléla!」
シラノの声は冬の空気の中でいつもより大きく響いた。広場の家々の戸口から、人が顔を出した。子どもたちが雪を蹴って駆け寄ってくる。年寄りは戸口に立ったまま、丸太の木口を目を細めて眺めていた。
大人になるために、ティウレラが初めて一人で伐った木だ。谷で冬を待って、凍った道を橇で下りてきた。次の秋にはこの木が綱で崖を下りる。
ティウレラは丸太の木口に回りこんで、指の節でこつこつと叩いた。耳を寄せた。頭巾の毛が木口に触れるくらいまで近づけて、目を閉じている。それから僕を見て、短く言った。
「krán.」
自分の伐った木を自分で確かめている。トカリーニャと呼ばれていたころ、綱場で丸太を叩いていたのと同じ手つきだった。
僕は笑って、胸に手を当てた。
「tiuléla.」
ティウレラは目を細めた。口の端と目と、両方で笑った。
◆
丸太は全部で十二本あった。
寄り合いの倉に運びこんで、奥に並べた。樵たちとヒルヴァンが丸太の両端に縄をかけて、掛け声に合わせて少しずつ引きずる。床の石がごりごりと鳴った。倉の中に冷えた木の、湿った土のようなにおいが広がった。
秋まで倉の炉が預かる。預かるからには証文がいる。
西の降ろし場の札を受け取ってから、帳面をつけるのは僕の仕事になっていた。
その夜、僕は倉の炉の端で、一本ずつ証文を書いた。
寒さで墨がすぐに重くなる。墨壺を炉の灰に半分埋めて温めながら書いた。指先がかじかむたびに、火にかざして揉んだ。
日付。相手。品。等級。数。念押し。預かり賃。最後に印の欄。
一本目を書き終えて、二本目にかかった。日付も相手も同じ。品も同じ。違うのは丸太の焼印の写しと、長さだけ。それでも全部を一から書く。念押しの字を工の字のような括りで挟む。
三本目。四本目。
七本目あたりで手が勝手に動くようになった。頭のほうは半分眠っていた。
十二本目を書き終えたのは、夜中だった。エルサンが炉の向こうで、うつらうつらしていた。大きな体を壁にあずけて、ときどき鼻がぐうと鳴る。僕は十二枚を炉の近くに並べて干して、毛皮をかぶって横になった。
朝になって、乾いた証文を一枚ずつ読み返した。
戸口から入る白い光の中で、墨の黒がくっきりしていた。
九枚目で手が止まった。
念押しの行がなかった。数は書いてある。念押しだけがすっぽり抜けている。眠くて、手が飛ばしたのだ。
背中が冷たくなった。
帳場でなら、これで証文は通らない。念押しのない数は数に入れない。レウマンさんに最初に教わった決まりだった。
僕は九枚目を書き直しながら、十二枚の証文を並べて見ていた。
どの紙も同じ形をしていた。同じ欄。同じ括り。同じ順番。違うのは欄の中の、ほんの少しの字だけ。
毎回同じところを毎回一から書いている。
十二本ならまだいい。でも橇はこれで終わりではない。冬が終わるまでに、あと百八十本あまりが谷から来る。そのたびに同じ枠を手で引いて、同じ字を手で書く。この冬だけで二百枚。そのどこかでまた一枚飛ばす。きっと飛ばす。
◆
木工の老人の作業場は、倉の隣にある。
冬のあいだ、僕は昼にここへ来て、巻き胴の歯を削る手伝いをしていた。木の削りくずと膠のにおい。炉の上に刃物を研ぐ砥石が並んでいる。壁には大小の鑿が柄を下にして掛けてあって、どれも刃の先だけがよく光っていた。床の隅には削りくずが吹き寄せられて、小さな山になっている。
僕は書き直した九枚目の証文を、作業台の上に広げた。
それから欄の枠と括りと、決まった字のところだけを指でなぞった。欄の中の空いたところは、なぞらなかった。
老人は眉の長い目で、僕の指を追っていた。白い眉が目にかぶさるほど伸びていて、どこを見ているのか、ふだんはよくわからない。今は僕の指先を見ている。それだけははっきりわかった。
僕は作業台の脇に立てかけてあった、彫りかけの板を指さした。前に刷る板だと教わったものだ。
「tiléla pandán?」
老人はすぐには答えなかった。
前にも僕はここで似たことを言った。字を一つずつ彫った小さな塊を並べて刷れば、と。老人は首を振った。一枚の板に長い日数をかけて字を彫る。それで食べている人たちがいる。塊を並べるやり方が広まれば、その人たちの仕事がなくなる。
今度は塊ではない。
老人は紙を持ち上げて、窓の明かりにかざした。節の太い指の先が紙の端をそっとつまんでいる。透けた墨の線を裏から確かめているようだった。
「sáindar.」
それから紙と彫りかけの板を見比べて、ゆっくり言った。
「ín pandá, ín sáindar.」
ふつうの刷り物と同じだ。誰の仕事も奪わない。
老人は紙を作業台に戻して、指で枠をなぞった。僕がなぞったのと同じところを。
「tílim.」
僕は息を吐いた。知らないうちに止めていたらしい。
◆
老人は棚の奥から板を一枚出してきた。
淡い黄色の、軽い板だった。持つと、思ったより軽い。木目が細かくて、爪で押すと、うっすら跡がつく。綱場の腕木に使う黒い硬木とは、まるで違う木だった。鼻を近づけると、かすかに甘いにおいがした。
老人はその板の上に僕の証文を裏返して貼りつけた。墨が透けて、字が左右逆さに見える。
小刀を取ると、老人は板の上に手のひらをかざして、口の中で何かを短く唱えた。低くて、僕には聞き取れなかった。木に何か言っているように見えた。
それからその線に沿って、小刀を入れていく。
彫るのは字のまわりだった。字を残して、まわりを削る。刃が入るたびにしゅっと乾いた音がして、薄い削りくずが巻いて落ちる。老人は背を丸めて、息まで細くしていた。
一日に彫れるのは指一本ぶんの幅だった。
◆
昼過ぎ、作業場から帰ると、ドルヴァルの炉ばたに子どもが五人座っていた。
戸を開けたとたん、子どもの声と炉の熱がいっぺんに顔に当たった。濡れた毛皮が戸口の脇に五つ、湯気を立てて積んである。
セルヴィーニャの前に、彫った板が何枚も並べてあった。一枚に一つずつ、字が彫ってある。碑の字だ。去年の冬、セルヴィーニャが炉の向こうで彫っていたものだった。
子どもたちは板の字を指でなぞって、声に出して読んでいた。鼻を赤くして、肩を寄せ合って、炉にいちばん近いところを取り合っている。エルサンの孫もいた。
この家だけが字を読み書きできる、とセルヴィーニャは前に言っていた。その字を町の子どもたちに分けているのだ。
セルヴィーニャが僕を見つけて、手招きした。それから炉の灰を指して、子どもたちのほうへ顎をしゃくった。数を教えろ、ということらしい。
僕は灰をならして、高原の数字を書いた。一、二、三。子どもたちはこれはもう知っていた。輪をつければ十。輪を二つで百。
それから百四と書いた。
子どもたちの何人かが首をかしげた。輪のない数字の書き方では、空の位に何も書かないと、十四と見分けがつかない。
僕は空の位に横の線を一本引いた。
帳場でセルヴァンと二人で使っていた書き方だ。何もない位には何もない、という線を引く。
エルサンの孫がすぐに自分の灰に書いた。二百一。三百十。横の線が正しいところに入っていた。舌の先を唇のあいだからのぞかせて、指を灰に押しつけるように書く。書き終えると、どうだという顔で僕を見上げた。
セルヴィーニャが目を丸くして僕を見た。それからにやりとした。
「tás silóur, rainiþár.」
おととしの雨季、セルヴィーニャは先生になりたいと言っていた。今は本当に先生になっている。子どもに板を渡す手つきが、もうそれらしかった。
先生と呼ばれるのは少しくすぐったい。
◆
夜は相変わらず崖の縁で数を言っていた。
七百十。七百二十。七百三十。
崖の縁の夜は町の中よりずっと寒い。下から吹き上げてくる風が、毛皮の隙間から入りこんでくる。星は凍ったように細かく、白い月の光が雪の上に青い影を落としていた。
天文台の見習いは相変わらず南を向いて立っている。数を言えば、うなずく。それだけの夜が続いた。上着の肩に霜が白く降りていても、彼女は払わなかった。
老人の板は少しずつ彫り進んでいった。欄の枠。括り。決まった字。一枠ずつ、黄色い板の上に字が立ち上がってくる。
昼に作業場をのぞくたび、削りくずの山が少しずつ高くなっていた。
そのあいだにも、谷の橇は凍った道を何度も下りてきた。来るたびに倉の奥の丸太の列が延びた。入りきらない分は綱場の脇に積んで、雪よけの板をかけた。証文はそのつど手で書いた。干す前に一枚ずつ、念押しの行を指で確かめた。
冬の終わりが見えてきたころ、老人が僕を作業場へ呼んだ。
板が仕上がっていた。
逆さの字が板の上に浮き上がっていた。刃の跡はどこも同じ深さで、枠の線は定規で引いたようにまっすぐだった。
老人は板に墨を薄く刷毛で塗った。その上に白い樹皮の紙を一枚かぶせた。紙の上から、丸めた布で、何度もこすった。
紙をそっとはがした。
証文の形が紙の上に黒く写っていた。欄の枠。念押しを挟む括り。決まった字。欄の中は白く空いている。
墨のにおいが立った。乾ききらない線が窓の光をにぶく照り返している。
僕は筆を取って、空いたところを埋めていった。日付。相手。品。数。念押し。
括りが先に刷ってあるから、念押しを飛ばしようがない。空いた括りがここに書け、と言っている。
書き終えるまで九枚目の半分の時間もかからなかった。
老人は刷り上がった紙と、僕が手で書いた最初の十二枚とを並べて、しばらく黙って見ていた。長い眉の下で目がわずかに動いた。それからもう一枚、紙をかぶせた。
その日から、手で書いた証文を刷った紙に一枚ずつ書き直していった。最後の橇が着いたのは、それから半月ほどあとだった。秋に下ろしそびれた八本目と合わせて、倉と綱場で秋を待つ丸太は二百本近くになった。証文は全部、刷った紙だった。
◆
日が少しずつ長くなり、昼間の霜が早く解けるようになった。白糸川の氷が岸のほうから灰色に濁りはじめた。崖の下から上がってくる風が、湿っぽくなった。
軒のつららが一日じゅう滴を落とすようになった。家々の石の土台の際で、雪がゆるんで黒い土がのぞいた。
霧の季節が来る。
縁商人の女がダーロルへ帰る支度をはじめた。狩人の小道でドゥランドへ出て、そこから崖道を下りるのだろう。霧が崖を這い上がってくれば崖道は閉じる。その前に下りきらなければならない。
出発の前の日、女は倉の戸口の陽だまりで荷をまとめていた。
僕は倉の荷札の束を返しに行ったついでに、横にしゃがみこんだ。
潮風に焼かれた色の手が、包みの縄を手早く締めていく。植物を編んだ肩掛けの縁に、紫の糸がのぞいていた。
荷の中に細長い布が巻いてあった。
女はそれを膝の上で少しほどいた。布には細かい印がびっしりと並んでいた。点。線。丸。ところどころにダーロルの字のようなもの。印は布の端から端まで、等しい間隔で続いていた。
僕が見ているのに気づいて、女は布を指で叩いた。それからほどいた布の一点を指で押さえて、もう一方の手の親指で指の節を数えはじめた。人差し指の根もと、中ほど、先。中指の根もと、中ほど、先。
去年の、縁の市の朝と同じ数え方だった。四本の指の、十二の節。
崖の縁から見下ろしていると、泥の原は日によって水に沈んだり、また現れたりする。あれが潮なら、泥の原を渡れる日は限られているはずだ。崖を下りて泥の原を渡る日を、数えているのかもしれない。だとしたら、これは潮の暦なのだろう。
押さえた指の少し先に、ほかの印と違う印があった。丸が二つ、重なるように描いてある。その横に太い線が一本。
僕がそこを見ているのに気づいて、女はその印を指で叩いた。
「kulu-tíkamé.」
ダーロルの言葉だった。
女は両手を握って、拳を二つ、目の前に並べた。それから片方の手を開いて、手のひらを拳の向こうに立てた。拳と、拳と、手のひら。三つが一列に並んだ。
二つの月と、日。
大潮だ、と思った。理科で習った。月と太陽が一直線に並ぶと、潮の満ち引きがいちばん大きくなる。この世界には月が二つある。二つの月と太陽が一列に並べば、もっと大きな潮になるのだろう。
女は印から指を離して、その指で僕の胸を軽く突いた。
「kulu-tíkamé. tóra dulána.」
僕が落ちてきた夜のことを言っているのだと、すぐにわかった。
あの夜、崖の下では二つの月と日が一列に並んでいたのだ。女はそれを覚えていた。あの冬、女は崖のすその市にいたのかもしれない。
女は僕の顔を見ていた。
目尻の皺が笑うときとは違う形に寄っていた。
去年の、縁の市の朝と同じ目だった。
「kine-pëlu...」
あのときと、同じ言葉だった。
僕は聞き返した。
「pó éso kine-pëlu?」
女は少し考えた。高原の言葉を探していたのだと思う。唇が何度か動いて、止まった。
「endríña léimen.」
誰が置いたのか、と聞こうとした。女は崖の下を指さした。泥の原と、そのずっと先の、灰色に光る沖を。
潮が置いていった子、ということだろうか。
それ以上は言わなかった。
陽だまりの中なのに、首の後ろが少し寒くなった。置かれた、というのは、誰かが置こうと思って置いたということだ。僕は落ちてきただけのつもりでいた。
女は布を巻き戻しはじめた。
巻いていく布の先のほうに、一つだけ変わった印が見えた。丸が三つ重なっている。その横に線ではなく、細い波のような印が添えてある。ほかの印はどれもはっきり描いてあるのに、それだけが輪郭のぼやけた、ためらうような描き方だった。
僕がそれを見ていることに、女は気づいた。
巻く手が少しだけ早くなった。
布はすぐに荷の中へ戻った。
◆
ふと見ると、エルサンの炉の戸口に、天文台の女の子が立っていた。
昼の光の中で見るのは珍しかった。上着の前をかき合わせて、まぶしそうに目を細めている。
こっちを見ていた。女の膝の上の布を。
僕と目が合うと、すぐに顔をそむけて、炉の中へ入っていった。戸が後ろで重い音を立てて閉まった。
あの布の何が気に入らないのか、僕にはわからなかった。
◆
次の朝、縁商人の女は狩人の小道へ向かった。
見送りに出たのはヒルヴァンと、エルサンと、僕だけだった。女は大きな荷を背中にくくりつけて、杖を一本ついていた。町の外れの小道の口で一度だけ振り返って、軽く手を上げた。それから背中が石の原の向こうへ遠ざかっていった。
杖が石を突く音がしばらく聞こえていた。それもすぐに風の音に紛れた。
その日の午後、崖の下から、白いものが這い上がってきた。
最初は泥の原の上の、薄い靄だった。それが見ているうちに厚くなって、崖の岩肌に沿ってゆっくり昇ってくる。岩棚が一つずつ白の中に沈んでいった。縁の石に手をかけるように、白いものが崖の上へあふれてきた。
霧だった。
空気が急に重く、冷たく湿った。頬に触れると、細かい水の粒で濡れていた。さっきまで見えていた降ろし場の腕木が、白の向こうでぼんやりした影になり、それも消えた。
その夜、崖の縁に星はなかった。
僕は炉の中で刻み目を一つ入れた。
七百六十四。
エルサンの炉でも今ごろ、同じ数が一つ刻まれているのかもしれない。
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