第30話 その夜を知った

雨季の終わりが近づくと、雨は夜にだけ降るようになった。

昼は雲が高く薄くなって、ときどき日が射す。濡れた石の原が日を受けて、いっせいに白い湯気を上げる。段々の畑で粟の穂が重く垂れて、風が通るたびに斜面全体がざわざわと波打った。町じゅうの炉が刈り入れの支度をはじめた。軒先で鎌を研ぐ音がどこからでも聞こえる。セルヴィーニャは穂を束ねる縄をなうのに忙しくて、夕飯のあいだも指が止まらなかった。

許しが切れるのも雨季の終わりだった。

去年の雨季の終わりには、許しをもらいに行くこと自体が初めてで、何もかもが手探りだった。今年は持っていくものがある。板と、数と、刷った紙の束。それでも出かける前の晩は、寝床で何度も寝返りを打った。

◆

ドゥランドの国交省の白い建物へは、ヒルヴァンと二人で行った。

ヒルヴァンは朝からいつもより口数が少なかった。いちばんいい上着を着て、顎ひげをきちんと刈りそろえてある。綱場で見る無精ひげの顔とは別人みたいだった。道々、僕の抱えた包みにときどき目をやっては、何も言わずに前を向いた。

去年、出し合いの取り決めを述べたのと同じ奥の部屋だった。緑の上着の役人が高い座にいた。脇の机にレウマンさんが控えていた。

部屋の中は外より一段ひんやりしていた。床の板は磨きこまれて、窓から入る光を鈍く返している。墨と古い紙のにおいがした。帳場と同じにおいなのに、ここで嗅ぐと少しだけ背筋が伸びる。

僕は膝をついた。去年は何をどの順で言えばいいのかもわからなかった。今年は言うことを決めてきた。

「léunim.」

板を床に立てた。

「nél báronul gandérur硬木を七本.」

一年の許しで下ろせたのは七本。それから、冬じゅう谷から橇で届いて倉と綱場で秋を待っている丸太の数。

「dáu sénþarou.」

ヒルヴァンが霧の季節の炉ばたで言った数を、そのまま借りた。

役人の目は動かなかった。去年と同じ、高いところから量るような目だった。七本と聞いても二百と聞いても、眉一つ動かない。顔の筋がどこにもつながっていないみたいだった。

僕は腰の袋から刷った証文の束を出して、板の前に並べた。丸太の預かりが二百枚近く。綱場まで昇った塩の箱。どの紙も枠と括りが黒く刷ってある。

床に並べると、同じ形の紙が窓の光の中にきれいにそろった。

役人が書記に目で合図した。書記が束を拾い上げて、高い座へ運んだ。

役人は一枚目を手に取った。

長いあいだ見ていた。指先で括りの線をなぞった。二枚目。三枚目。紙をめくる音だけが部屋に響いた。隣でヒルヴァンが息を詰めているのがわかった。僕も膝の上で知らないうちに指を握りこんでいた。

「pá pánda誰が刷った?」

「tilár.」

フネローラの木工の老人です、と言いたかったけれど、そこまでの言葉は出てこなかった。役人はそれ以上聞かなかった。

かわりに脇の机のレウマンさんが立ちあがった。引き出しから一枚の紙を出して、役人の前に置いた。雨季のはじめに僕の帳面から一枚だけ預かった、あの証文だった。

あの日、黙って引き出しにしまったのはこのためだったのか。

レウマンさんが何か言った。長い、改まった言葉だった。聞き取れたのは帳場、念押し、それから数がいくつか。声はいつもの帳場の声より低くて、ゆっくりだった。一度も僕のほうを見なかった。

役人は二枚の紙を並べて見ていた。

それから顔を上げた。僕ではなく、ヒルヴァンを見た。

「ín tráimel, ín fréimanもう一年.」

書記の筆が動いた。役人の腰の札が紙に押された。

ヒルヴァンが床に額がつくほど頭を下げた。僕もあわてて下げた。床の板が額にひやりと冷たかった。

顔を上げたとき、ヒルヴァンの肩から力が抜けていくのが見えた。横顔は何も変わっていなかった。でも大きな手が膝の上で一度だけ、ぎゅっと握られて、ほどけた。

建物を出たところで、レウマンさんが追いかけてきた。僕の手の中の刷った証文を指でとんとんと叩いて、それから帳場のほうへ顎をしゃくった。

ドゥランドの分もということらしかった。

木工の老人にまた版の木を彫ってもらうことになりそうだ。今度は何枚ぶんだろう。帰り道の足は行きよりずっと軽かった。

◆

ウェレルの棒の、輪の刻み目の夜が来た。

夕方、雨がやんだ。西の空の雲が低いところから少しずつほどけていった。ほどけた隙間から、洗われたような薄い青がのぞいた。屋根の石からはまだぽたりぽたりと雫が落ちている。

空気がよく澄んでいた。崖の縁のほうから、湿った土と草のにおいが上がってくる。今夜は晴れる。言い切ったら笑われるから、口には出さなかった。

僕が毛皮の上着を羽織ると、ウェレラさんが戸口の前に立った。

「mé gél nórei sé今夜は行くな.」

いつもの、霧の夜の「名前を呼ぶな」とは違う声だった。

町の家々の戸が日の暮れる前から次々に閉まっていった。井戸端にも誰もいない。刈り入れの最中なのに、畑からも人の声が消えていた。二つの月がそろって満ちる夜を、この町の人は外で過ごさないのだ。

なぜなのかは知らない。聞いてもたぶん今の僕の言葉ではわからない。

僕は胸に手を当てた。霧の切れ間の星の下で、彼女と約束した夜のように。

ウェレラさんは長いあいだ僕の顔を見ていた。

皺の深い目の奥で、何かを量っているようだった。止める言葉ならいくらでもあるはずだった。杖を握る手に少しだけ力が入っていた。

それから腰の小袋に指を入れた。塩の粒をつまんで、僕の指先と手のひらにつけた。落ちてきて二日目、井戸端でされたのと同じだった。

ざらりとした感触が指に残った。あのときは何をされているのかもわからなかった。今もわからない。でも送り出されたのだということはわかった。

何も言わずに戸口から退いた。

◆

崖の縁の石の上に、彼女がもう立っていた。

雨に濡れた石が残りの夕日を受けて光っていた。西を向いて立っている。崖の下の泥の原と、そのずっと先の、空と沖の境目のほうを。

泥の原は夕日を照り返して、一面の鈍い銅色だった。ところどころに水の筋が光っている。潮が引いているのか満ちているのか、ここからではわからない。風が崖を這い上がってきて、ふくろうの羽を揺らした。

僕は少し離れた石に座った。

どちらも口をきかなかった。言うことがなかったわけじゃない。今夜はたぶん、言葉より先に空が答える。

東の空から、赤い月が昇ってきた。まん丸だった。少し遅れて、白い月が昇ってきた。こちらもまん丸。

二つの満月が雲の切れ間を、離れたまま昇っていく。

白い月の光は明るくて、石の原に僕たちの影がくっきり落ちた。その影の縁が赤い月の光でかすかに赤く滲んでいる。影が二重になっていた。こっちに来てから何度も見ているはずなのに、二つとも満ちた夜にちゃんと見上げるのは初めてかもしれない。

夜が更けた。二つの月は空の高いところまで昇った。先を行く赤い月と、後ろの白い月。赤い月は星のあいだを少しずつ東へずれて、白い月のほうへ寄っていく。でも重ならない。

何度も腕を伸ばして指を当ててみた。隙間は指四本ぶんか、五本ぶん。縮んではいるのだと思う。でも思っていたよりずっと遅かった。

真夜中になっても重ならなかった。

僕はウェレルの棒を握りしめていた。輪の刻み目の夜は今夜で合っている。季節のずれも合っていたはずだ。

灰の上の線を頭の中で何度も引き直した。どこで間違えたのか。満月の理屈か。並び方か。そもそもあの五と六の間隔から何かを読み違えたのか。

外れたのだ、と思った。

喉の奥がひりついた。ウェレラさんの塩もウェレルの棒の字も、雨の中を灯りも持たずに歩いてきたあの夜も、全部ここに賭けていたのに。

僕がそう言いかけたとき、彼女が西の低い空のほうへ手のひらを差し上げた。

「oráurei.」

年の帳簿の重なりはどれも夜明け前のこととして書かれていたらしい。そういえば、雨の夜に灰の前で唱えた年のあとには、いつももう一つ短い言葉がついていた。月の名前だと思っていたあの言葉のどれかが、刻だったのかもしれない。

僕はいちばん高いところで重なると思いこんでいた。二つの月が空を渡って、西へ沈む直前。それがいちばん近づく時なら、見えるのは低い西の空だけだ。

都からは見えない低い空なのだろう。

だから天文台は見習いをここへよこした、ということか。

外れたのは理屈じゃなかった。僕の思いこみだった。急に体じゅうの力が抜けて、僕は石の上に座り直した。

◆

夜明けまで待った。

雲がまた出てきて、二つの月を何度か隠した。そのたびに彼女は息を止めているようだった。雲が流れて月がまた顔を出すと、細い肩がほんの少し下がる。そのあいまに腕を伸ばしてみると、隙間は指三本、二本と細くなっていた。

冷えた。雨のあとの夜の石は毛皮越しにも冷たい。僕は膝を抱えて、うつらうつらした。

崖の下から、ときどき水の音のようなものが聞こえた。泥の原を渡る風なのか、本当に水なのか、眠い頭ではわからなかった。

「híro.」

目を開けた。

彼女が僕のすぐそばに立っていた。

名前を呼ばれたのは初めてだった。

頭がはっきりするのに少しかかった。呼ばれた声が耳の中にまだ残っていた。

細い目はもう僕のほうを見ていなかった。西の低い空を見ていた。

泥の原の向こう、空と沖の境目の少し上に、白い月がかかっていた。沈みかけて、少し黄色くなっている。そのすぐ下に赤い月がいた。

赤い月が白い月の縁に、触れた。

僕は息をするのを忘れていた。

白い月の丸い縁が赤い影に少しずつ食われていく。赤い月は白い月より小さい。だから、全部は隠せない。白い月の真ん中に赤い円が入りこんで、その外側に白い光の輪だけが残った。

白い輪の中の、赤い月。

テレビで見た金環日食に似ていた。でもあれは画面の中の、遠い国の空だった。これは今、僕の目の前の空で起きている。

音はなかった。泥の原の上を渡る風の音だけがしていた。

彼女がささやくように言った。

「sán ín sílarau二つの月が一つになった.」

年の帳簿の、あの決まった言い方だった。今度は目の前で起きていることだった。

横顔を見た。細い目を大きく見開いて、まばたきもしていなかった。いつもの青白い頬が空の色を映して少し赤く見えた。

長くはかからなかった。赤い月は白い月の前を横切って、反対の縁から抜けていった。白い月の縁がもとの丸に戻った。それから二つとも沖の向こうへ沈んでいった。

東の空が白くなりはじめていた。

背中のほうから光が来て、石の原の水たまりが一つずつ明るくなっていく。どこかで鳥が一声鳴いた。

彼女は腰の袋から紙と筆を出した。立ったまま何か書きつけた。筆を持つ手がかすかに震えていた。寒さのせいなのかどうかはわからない。それから紙を袋にしまって、僕のほうを見た。

「ráinsimor nóranその夜を知った.」

霧の切れ間の星の下で、僕が胸に手を当てて言ったこと。その終わった形だった。

僕はうなずいた。

何か言おうとしたけれど、言葉が見つからなかった。見つからなくていいような気もした。

◆

町へ戻る道で僕は一つだけ言わずにおいたことを考えていた。

石の原は朝の光で濡れたように光っていた。足もとの水たまりに、白くなりかけた空が映っている。

三百八十年前の重なり。年の帳簿には下の国で水が昇った、と添えてあった。

縁商人の女の布の、ずっと先のほうにあった、丸が三つ重なった印。輪郭のぼやけた、ためらうような描き方の。

今夜のは二つの丸だった。

白い月と、赤い月と、日。三つがもっとぴったり並んだら。

僕はウェレルの棒を握り直した。

町の家々の戸がひとつ、またひとつ開きはじめた。炉の煙が細く上がりはじめる。ドルヴァルの炉の戸口に、ウェレラさんが立っていた。一晩じゅうそこにいたのかもしれない。僕の顔を見て、手のひらを空へ差し上げた。

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