第31話 名を書け

雨がやんで北から乾いた風が下りてきた。

一晩で雲が吹き払われて空が高くなった。朝、戸口を開けると息が白い。ゆうべまで屋根を叩いていた雨の匂いはもうどこにもなかった。かわりに乾いた草と、どこかの炉で焚いている松の脂の匂いがした。

刈り入れの済んだ段々の畑に、干した穂の束が並んでいる。軒下にもびっしりと穂がかけてあって、風が吹くたびにかさかさと鳴った。崖の下の泥の原が端から端まで見えた。雨季のあいだずっと雲の底に沈んでいた景色だ。泥の上を這う水の筋が、朝日を受けて細く光っていた。

乾季が来た。

三度目の年の始まりが近い。

◆

年の始まりの前の夜、僕は束の刻み目を数え直した。

炉の明かりの下で切れ端を一本ずつ膝に並べていく。白い月が満ちるたびに替えてきた木の切れ端は、古いものほど手垢で黒い。指の腹で刻み目を一つずつ送った。

去年の年の始まりの十字から、今日まで。三百六十一。

一年が三百六十二日なら十の灯は明日の明け方に昇る。

念のため、もう一度はじめから送った。同じだった。

その夜も崖の縁へ行った。

雨季のあいだ雲に隠れていた星が、今夜は空じゅうにこぼれていた。背中から乾いた風が吹きつけて、崖の外の暗がりへ抜けていく。上着の裾がばたばたと鳴った。

いつものように今夜の数を言ったあと、もう一つ数を言った。

「réum sénþarul ombár fáir九百十四.」

明日の数だ。

彼女は南を向いたまま何も言わなかった。風に消えるほど小さな声ではなかったはずだ。

でも帰りぎわに東の空のほうを一度だけ見た。

聞こえてはいたらしい。

◆

夜明け前、ドルヴァルの炉の家じゅうで戸口の外に出た。

鼻の奥がつんとするほど冷えていた。石の原の石がまだ夜の冷たさを抱えていて、足の裏から冷えが上がってくる。セルヴィーニャが毛皮の上着の襟を両手でかき合わせていた。

並びは去年と同じだった。ウェレラさんが杖をついて一歩前に立ち、ヒルヴァンとフレウレラさんがその後ろ。ウェレル、セルヴィーニャ、僕。

最初の年は何が始まるのかもわからないまま、この列の端に立っていた。今は手のひらを差し上げる時を知っている。

東の崖の縁の上がうっすら白んでいた。

石の原の向こうから足音が近づいてきた。乾いた砂利を踏む、軽くて速い足音。

彼女だった。

生成りの上着の肩を少しすぼめている。髪に挿したふくろうの羽が、薄明かりの中で灰色の影になっていた。

エルサンの炉の戸口でも崖の縁でもなく、ここへ来た。ドルヴァルの炉の戸口から少し離れたところに、一人で立った。ゆうべの数を確かめに来たのだろう。

ウェレラさんがちらりとそちらを見た。何も言わずに東へ向き直った。

セルヴィーニャが肘で僕の脇腹をつついた。見なかったことにした。

風がやんでいた。誰も口をきかない。どこかの炉で山羊が一声鳴いて、それきり静かになった。

空の色が変わっていく。黒から紺へ。紺から灰色がかった青へ。

東の崖の縁の上に、小さな光が一つ見えた。針の先でつついたような光だった。それからもう一つ。また一つ。

十の灯だった。

指が勝手に光を追いかけそうになる。僕は手を握りこんだ。星は数えてはいけない。

ウェレラさんが家の者の名と年を一人ずつ唱えはじめた。杖に体をあずけた背中から、低い声が冷たい空気の中に一つずつ置かれていく。ヒルヴァン。フレウレラさん。ウェレル。セルヴィーニャ。

「híro, ombár ánþa尋、十八.」

十八か。日本にいたら受験生だ。

僕は手のひらを空へ差し上げた。

横目で見ると、彼女は手を上げていなかった。この家の者ではないからだろう。それでも十の灯から目を離さずに立っていた。まばたきもしていないように見えた。

唱え終わると、僕のほうへ一歩だけ近づいて小さく言った。

「vérin.」

九百十四日目。三百六十二日。刻み目のとおりの明け方だった。

毎晩寝る前に刻んできた傷が、一日もずれていなかった。

悪くない。

◆

年の始まりから三日目、ドゥランドの帳場が開いた。

僕は刷った証文の束を抱えて、大石段を下りていった。乾いた風が背中を押してくる。束をさらわれないように、胸に押しつけて歩いた。

帳場の戸口をくぐったとたん、早口の声が飛んできた。

「híro!」

顔を上げる前に誰だかわかった。

セルヴァンだった。

冬から雨季まで都へ帰っていて、乾季に合わせて戻ってきたのだ。灰と薄黄と淡い緑の、三枚重ねの上着。頬が少しこけて、顔が日に焼けていた。都までの道は長いのだろう。話し方だけは去年と同じだった。相手がわかっていようといまいと一息にまくし立てる。

帳場の中は雨季のあいだ人が少なかったせいで、墨と埃と湿った灰の匂いがこもっていた。書記たちが戸板を外して風を通している。

セルヴァンは僕を机の端に引っぱっていくと、腰の袋から木の板を出した。

板の上に炭で数字が並んでいた。高原の数字なのに輪がない。位ごとに縦に区切って、空いた位には横の線が一本。

おととし、帳場で二人で使っていた書き方だった。

「un kloimándoi, rímban lisárai sérin学び舎で、書記たちがこうやって数えてる!」

都の学び舎で紙の盤が使われている。

帳場の机の隅で二人で書きなぐっていた数字が、都まで行って帰ってきた。妙な気分だった。

セルヴァンの話はそこから急に早くなった。半分も聞き取れなかった。でも手つきでわかった。セルヴァンは板の数字の端に炭で弧を一本書き足してみせた。それから顔をしかめて首を横に振った。

輪のない数字は書き足せば別の数になる。都の年寄りたちはそこを嫌がっているらしい。念押しの字もない。帳簿に書くには危なすぎる。

僕は腰の袋から刷った証文を一枚出した。

枠。括り。輪のついた高原の数字と、その横の念押し。それからセルヴァンの板の、輪のない数字を指さした。

「rímbimor sérin数えるのはこう. lísimor sérin書くのはこう.」

計算は紙の盤で。残すのは輪と念押しで。

セルヴァンは刷った証文と自分の板を何度も見比べた。それから刷った線を指でなぞった。

机の奥でずっと筆を動かしていたレウマンさんが、黙って引き出しからもう一枚出してきて隣に置いた。墨で黒くなった指が紙の端を一度だけ揃えた。

セルヴァンが初めて黙った。

帳場の書記たちが顔を上げるほど珍しいことだった。

◆

帰りぎわ、セルヴァンがもう一つ話した。

西日が戸口から斜めに差しこんで、床の埃を光らせていた。セルヴァンは戸口の外をちらりと見てから声を落とした。

今度は短い話だった。都の天文台のことだった。

「na snóondan sílaran月を足さなかった.」

帰りの道のあいだ、僕はドルヴァルの炉の戸口の明け方を思い出していた。

十の灯は刻み目のとおりの日に昇った。月を足していれば、暦の上でもちょうど年の変わり目だったはずだ。足さなかったのなら、暦の月と十の灯がひと月ずれている。

彼女はそれを知っていて、あの明け方、僕に「vérin」と言ったのだろうか。

◆

セルヴァンは次の休みの日に、フネローラまでついてきた。

道のあいだじゅうしゃべりどおしだった。息が切れても止まらない。

刷った証文の版木をどうしても自分の目で見たいのだという。

木工の老人の作業場は木屑と樹脂の匂いでむっとしていた。老人は作業台の前で背を丸めたまま、客のほうを見もしなかった。セルヴァンは黄色い板を両手で持ち上げて、戸口の光にかざしては長いことひっくり返していた。彫りの溝に指先を入れて、深さを確かめている。

老人の手が止まったのは一度だけだった。セルヴァンが板の縁を爪で弾いたときで、そのときだけ顔を上げてじろりとにらんだ。

作業場を出たところで、セルヴァンの足が止まった。

石の原の向こうを背の高い人影が歩いていた。生成りの上着。髪にふくろうの羽。

セルヴァンが大きな声で呼んだ。

「orauréla!」

彼女が足を止めた。

振り向いた顔は見たことのない顔だった。細い目がいつもよりさらに細い。口の端がわずかに下がっていた。

セルヴァンは早口で何か言いながら近づいていった。笑っていた。からかうような、上から投げるような調子だった。都の学び舎で顔を合わせていたのだろう。

言葉を最後まで聞いてから、短い返事が返った。

「aulisár.」

セルヴァンは彼女を名で呼ぶ。彼女はセルヴァンを役で呼ぶ。セルヴァンの段のほうが上なのだろう。

でも僕の耳に残ったのは、そこではなかった。

orauréla。

oráur。夜明け。重なりの夜、彼女が西の空に手のひらを差し上げて言った言葉が、名前の頭に入っている。

夜明けの、何か。口の中だけで転がしてみた。

セルヴァンが帳場へ帰っていったあと、オラウレラ……いや、彼女は、僕のほうへ歩いてきた。顔はもういつもの顔に戻っていた。

僕はつい口を開きかけた。

「oraur...」

「mé hál呼ぶな.」

ぴしゃりとした声だった。

細い目がまっすぐ僕を見ていた。怒っているというより、子どもが火に手を伸ばしたのを止めるときの目だった。

口には出さない。それが決まりなのは知っている。

でも心の中でどう呼ぶかまでは、決まっていないはずだ。

オラウレラ。

◆

その夜、エルサンの炉の奥で、オラウレラは天文台への届けを書いていた。

エルサンの炉は夜でもにぎやかだ。表のほうでは誰かが笑い、薪がはぜる。奥はそこから一枚壁を隔てていて、火の音だけが届く。

読めた字を拾うと、十の灯がどの日の明け方に昇ったか。重なりの夜がどの夜の、どの刻だったか。一年の日数と、三年に一度の月の足し方。そんなことを書いているらしかった。

何枚も書いた。都の字の、細くて正確な線で。筆を紙から離すたびに、墨が乾くのを待つように小さく息を吐く。僕は炉の向かいに座って、書き上がった紙が炉の熱で少しずつ反っていくのを見ていた。

最後の一枚の、最後の行の手前で筆が止まった。

オラウレラは筆を僕のほうへ差し出した。

「lís þelán tásesお前の名を書け.」

僕は筆を受け取った。都の筆は帳場の筆より細くて軽い。炉の端の板切れに、自分の名前を書いた。

〈hiro〉

書いてから、下に線を引くかどうか迷った。帳場の書付でも役人の書記の紙でも、僕の名前の下にはいつも波線が引かれてきた。崖の下から来た言葉の印だと、僕は思っている。

筆の先が板切れの上で止まったまま、炉の火が一つはぜた。

引かなかった。

理由はうまく言えない。ただ、この一行には要らない気がした。

オラウレラは板切れの字を見て、届けの最後の行に書き写した。

〈hiro〉

波線はなかった。

何も言わずに届けを巻いた。紐で縛って、封の印を押した。

明日の朝、国交省の役人に託して、北の道を都へ送るのだという。

僕の名前が都へ行く。

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