小説
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雨がやんで北から乾いた風が下りてきた。
一晩で雲が吹き払われて空が高くなった。朝、戸口を開けると息が白い。ゆうべまで屋根を叩いていた雨の匂いはもうどこにもなかった。かわりに乾いた草と、どこかの炉で焚いている松の脂の匂いがした。
刈り入れの済んだ段々の畑に、干した穂の束が並んでいる。軒下にもびっしりと穂がかけてあって、風が吹くたびにかさかさと鳴った。崖の下の泥の原が端から端まで見えた。雨季のあいだずっと雲の底に沈んでいた景色だ。泥の上を這う水の筋が、朝日を受けて細く光っていた。
乾季が来た。
三度目の年の始まりが近い。
◆
年の始まりの前の夜、僕は束の刻み目を数え直した。
炉の明かりの下で切れ端を一本ずつ膝に並べていく。白い月が満ちるたびに替えてきた木の切れ端は、古いものほど手垢で黒い。指の腹で刻み目を一つずつ送った。
去年の年の始まりの十字から、今日まで。三百六十一。
一年が三百六十二日なら十の灯は明日の明け方に昇る。
念のため、もう一度はじめから送った。同じだった。
その夜も崖の縁へ行った。
雨季のあいだ雲に隠れていた星が、今夜は空じゅうにこぼれていた。背中から乾いた風が吹きつけて、崖の外の暗がりへ抜けていく。上着の裾がばたばたと鳴った。
いつものように今夜の数を言ったあと、もう一つ数を言った。
「réum sénþarul ombár fáir.」
明日の数だ。
彼女は南を向いたまま何も言わなかった。風に消えるほど小さな声ではなかったはずだ。
でも帰りぎわに東の空のほうを一度だけ見た。
聞こえてはいたらしい。
◆
夜明け前、ドルヴァルの炉の家じゅうで戸口の外に出た。
鼻の奥がつんとするほど冷えていた。石の原の石がまだ夜の冷たさを抱えていて、足の裏から冷えが上がってくる。セルヴィーニャが毛皮の上着の襟を両手でかき合わせていた。
並びは去年と同じだった。ウェレラさんが杖をついて一歩前に立ち、ヒルヴァンとフレウレラさんがその後ろ。ウェレル、セルヴィーニャ、僕。
最初の年は何が始まるのかもわからないまま、この列の端に立っていた。今は手のひらを差し上げる時を知っている。
東の崖の縁の上がうっすら白んでいた。
石の原の向こうから足音が近づいてきた。乾いた砂利を踏む、軽くて速い足音。
彼女だった。
生成りの上着の肩を少しすぼめている。髪に挿したふくろうの羽が、薄明かりの中で灰色の影になっていた。
エルサンの炉の戸口でも崖の縁でもなく、ここへ来た。ドルヴァルの炉の戸口から少し離れたところに、一人で立った。ゆうべの数を確かめに来たのだろう。
ウェレラさんがちらりとそちらを見た。何も言わずに東へ向き直った。
セルヴィーニャが肘で僕の脇腹をつついた。見なかったことにした。
風がやんでいた。誰も口をきかない。どこかの炉で山羊が一声鳴いて、それきり静かになった。
空の色が変わっていく。黒から紺へ。紺から灰色がかった青へ。
東の崖の縁の上に、小さな光が一つ見えた。針の先でつついたような光だった。それからもう一つ。また一つ。
十の灯だった。
指が勝手に光を追いかけそうになる。僕は手を握りこんだ。星は数えてはいけない。
ウェレラさんが家の者の名と年を一人ずつ唱えはじめた。杖に体をあずけた背中から、低い声が冷たい空気の中に一つずつ置かれていく。ヒルヴァン。フレウレラさん。ウェレル。セルヴィーニャ。
「híro, ombár ánþa.」
十八か。日本にいたら受験生だ。
僕は手のひらを空へ差し上げた。
横目で見ると、彼女は手を上げていなかった。この家の者ではないからだろう。それでも十の灯から目を離さずに立っていた。まばたきもしていないように見えた。
唱え終わると、僕のほうへ一歩だけ近づいて小さく言った。
「vérin.」
九百十四日目。三百六十二日。刻み目のとおりの明け方だった。
毎晩寝る前に刻んできた傷が、一日もずれていなかった。
悪くない。
◆
年の始まりから三日目、ドゥランドの帳場が開いた。
僕は刷った証文の束を抱えて、大石段を下りていった。乾いた風が背中を押してくる。束をさらわれないように、胸に押しつけて歩いた。
帳場の戸口をくぐったとたん、早口の声が飛んできた。
「híro!」
顔を上げる前に誰だかわかった。
セルヴァンだった。
冬から雨季まで都へ帰っていて、乾季に合わせて戻ってきたのだ。灰と薄黄と淡い緑の、三枚重ねの上着。頬が少しこけて、顔が日に焼けていた。都までの道は長いのだろう。話し方だけは去年と同じだった。相手がわかっていようといまいと一息にまくし立てる。
帳場の中は雨季のあいだ人が少なかったせいで、墨と埃と湿った灰の匂いがこもっていた。書記たちが戸板を外して風を通している。
セルヴァンは僕を机の端に引っぱっていくと、腰の袋から木の板を出した。
板の上に炭で数字が並んでいた。高原の数字なのに輪がない。位ごとに縦に区切って、空いた位には横の線が一本。
おととし、帳場で二人で使っていた書き方だった。
「un kloimándoi, rímban lisárai sérin!」
都の学び舎で紙の盤が使われている。
帳場の机の隅で二人で書きなぐっていた数字が、都まで行って帰ってきた。妙な気分だった。
セルヴァンの話はそこから急に早くなった。半分も聞き取れなかった。でも手つきでわかった。セルヴァンは板の数字の端に炭で弧を一本書き足してみせた。それから顔をしかめて首を横に振った。
輪のない数字は書き足せば別の数になる。都の年寄りたちはそこを嫌がっているらしい。念押しの字もない。帳簿に書くには危なすぎる。
僕は腰の袋から刷った証文を一枚出した。
枠。括り。輪のついた高原の数字と、その横の念押し。それからセルヴァンの板の、輪のない数字を指さした。
「rímbimor sérin. lísimor sérin.」
計算は紙の盤で。残すのは輪と念押しで。
セルヴァンは刷った証文と自分の板を何度も見比べた。それから刷った線を指でなぞった。
机の奥でずっと筆を動かしていたレウマンさんが、黙って引き出しからもう一枚出してきて隣に置いた。墨で黒くなった指が紙の端を一度だけ揃えた。
セルヴァンが初めて黙った。
帳場の書記たちが顔を上げるほど珍しいことだった。
◆
帰りぎわ、セルヴァンがもう一つ話した。
西日が戸口から斜めに差しこんで、床の埃を光らせていた。セルヴァンは戸口の外をちらりと見てから声を落とした。
今度は短い話だった。都の天文台のことだった。
「na snóondan sílaran.」
帰りの道のあいだ、僕はドルヴァルの炉の戸口の明け方を思い出していた。
十の灯は刻み目のとおりの日に昇った。月を足していれば、暦の上でもちょうど年の変わり目だったはずだ。足さなかったのなら、暦の月と十の灯がひと月ずれている。
彼女はそれを知っていて、あの明け方、僕に「vérin」と言ったのだろうか。
◆
セルヴァンは次の休みの日に、フネローラまでついてきた。
道のあいだじゅうしゃべりどおしだった。息が切れても止まらない。
刷った証文の版木をどうしても自分の目で見たいのだという。
木工の老人の作業場は木屑と樹脂の匂いでむっとしていた。老人は作業台の前で背を丸めたまま、客のほうを見もしなかった。セルヴァンは黄色い板を両手で持ち上げて、戸口の光にかざしては長いことひっくり返していた。彫りの溝に指先を入れて、深さを確かめている。
老人の手が止まったのは一度だけだった。セルヴァンが板の縁を爪で弾いたときで、そのときだけ顔を上げてじろりとにらんだ。
作業場を出たところで、セルヴァンの足が止まった。
石の原の向こうを背の高い人影が歩いていた。生成りの上着。髪にふくろうの羽。
セルヴァンが大きな声で呼んだ。
「orauréla!」
彼女が足を止めた。
振り向いた顔は見たことのない顔だった。細い目がいつもよりさらに細い。口の端がわずかに下がっていた。
セルヴァンは早口で何か言いながら近づいていった。笑っていた。からかうような、上から投げるような調子だった。都の学び舎で顔を合わせていたのだろう。
言葉を最後まで聞いてから、短い返事が返った。
「aulisár.」
セルヴァンは彼女を名で呼ぶ。彼女はセルヴァンを役で呼ぶ。セルヴァンの段のほうが上なのだろう。
でも僕の耳に残ったのは、そこではなかった。
orauréla。
oráur。夜明け。重なりの夜、彼女が西の空に手のひらを差し上げて言った言葉が、名前の頭に入っている。
夜明けの、何か。口の中だけで転がしてみた。
セルヴァンが帳場へ帰っていったあと、オラウレラ……いや、彼女は、僕のほうへ歩いてきた。顔はもういつもの顔に戻っていた。
僕はつい口を開きかけた。
「oraur...」
「mé hál.」
ぴしゃりとした声だった。
細い目がまっすぐ僕を見ていた。怒っているというより、子どもが火に手を伸ばしたのを止めるときの目だった。
口には出さない。それが決まりなのは知っている。
でも心の中でどう呼ぶかまでは、決まっていないはずだ。
オラウレラ。
◆
その夜、エルサンの炉の奥で、オラウレラは天文台への届けを書いていた。
エルサンの炉は夜でもにぎやかだ。表のほうでは誰かが笑い、薪がはぜる。奥はそこから一枚壁を隔てていて、火の音だけが届く。
読めた字を拾うと、十の灯がどの日の明け方に昇ったか。重なりの夜がどの夜の、どの刻だったか。一年の日数と、三年に一度の月の足し方。そんなことを書いているらしかった。
何枚も書いた。都の字の、細くて正確な線で。筆を紙から離すたびに、墨が乾くのを待つように小さく息を吐く。僕は炉の向かいに座って、書き上がった紙が炉の熱で少しずつ反っていくのを見ていた。
最後の一枚の、最後の行の手前で筆が止まった。
オラウレラは筆を僕のほうへ差し出した。
「lís þelán táses.」
僕は筆を受け取った。都の筆は帳場の筆より細くて軽い。炉の端の板切れに、自分の名前を書いた。
〈hiro〉
書いてから、下に線を引くかどうか迷った。帳場の書付でも役人の書記の紙でも、僕の名前の下にはいつも波線が引かれてきた。崖の下から来た言葉の印だと、僕は思っている。
筆の先が板切れの上で止まったまま、炉の火が一つはぜた。
引かなかった。
理由はうまく言えない。ただ、この一行には要らない気がした。
オラウレラは板切れの字を見て、届けの最後の行に書き写した。
〈hiro〉
波線はなかった。
何も言わずに届けを巻いた。紐で縛って、封の印を押した。
明日の朝、国交省の役人に託して、北の道を都へ送るのだという。
僕の名前が都へ行く。
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