小説
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乾季に入って二十日ほどたったころだった。
朝晩の冷えが日ごとにきつくなっていた。どの炉の庭先でも干し上がった穂を叩く音が一日じゅう続いて、籾殻が風に舞っては道の隅に吹き溜まる。町の北の林では針のような葉の木が黄色く色づいて、風が吹くたびに細かい葉を散らした。
秋の下ろしが近くて、帳場は朝から荷札の山だった。
帳場の机で荷札を写していると、レウマンさんが奥から僕を目で呼んだ。
机の上に巻いた紙が一つ置いてあった。紐で縛ってあって、結び目に封の印が押してある。灰色がかった青の蝋だった。押された印は細い線が絡み合った形で、帳場の札の印とも国交省の印とも違う。見たことのない形だった。
レウマンさんは封を切らずに、紙の外側に書かれた一行を指でたどった。
「brándal lisímes.」
それからもう一行。
「híro dórvaros.」
僕の名前だった。系譜に書かれたときと同じ形の。
背中がすっと冷えた。悪いことをした覚えはない。たぶん。
◆
系譜の巻をあずかる、町の上手の白い家。あそこに出入りしていた灰青の上着の人たちが思い浮かんだ。封の蝋と同じ色だ。系譜を書く。法を書く。帳場の帳面の決まりも、たぶんそこから来ている。
日本なら法務省だろうか。戸籍も法律もあそこの仕事だ。
レウマンさんは封を切って紙を広げた。改まった字がびっしり並んでいた。読み上げる声も改まっていた。いつもより低く、ゆっくりで、一行読むごとに僕の顔を見た。半分もわからなかった。
わかったのは来い、ということだけだった。都へ。
北の道のずっと先にある、ということしか知らない場所だった。
◆
理由はその日の夕方、セルヴァンが自分から白状した。
帳場の戸口で僕の袖をつかんで、いつもより少し小さな声で言った。珍しく目をそらしていた。
「lísim þelán táses un plánei.」
都の学び舎で紙の盤の書き方を広めたとき、セルヴァンは自分の帳面に書き留めていたのだという。盤を寝かせて紙に書くやり方を考えたのは誰か。空の位に線を引いたのは誰か。
セルヴァンは最初のほうに僕の名前を書いた。自分の名前はそのあとに書いた。
その帳面を学び舎の師匠が読んだ。師匠は法務省の人だった。
セルヴァンは怒られると思ったのか、肩をすくめて待っていた。
怒る理由がなかった。
むしろ、自分の名前をあとに書く人だとは思っていなかった。それを言えるだけの言葉がなかったので、肩を一つ叩いた。セルヴァンはきょとんとして、それからいつもの早口に戻った。
◆
フネローラへ帰ると、エルサンの炉の戸口に、オラウレラが立っていた。
手に紙を一枚持っていた。僕のと同じ灰青の封ではなかった。もっと濃い、夜の空みたいな色の封が切ってあった。
都の天文台からだ、と思った。オラウレラの届けがあちらに着いたのだ。
細い目が僕の手の中の灰青の封を見た。それから自分の紙を見た。
「gélim silóur.」
呼び戻されたのだろう。届けを書いた本人が都で説明しなければならない。
都の天文台は去年の終わりに月を足さなかったらしい。足すべきだったと届けに書いたのかもしれない。都の人たちはそれをどんな顔で読んだのだろう。
オラウレラの顔からは何もわからなかった。西日が横から当たって、髪のふくろうの羽の縞がくっきり見えた。それだけ言うと炉の中へ戻っていった。いつもの、まっすぐな背中だった。
◆
発つ前の晩、ドルヴァルの炉ばたで、西の降ろし場の帳面をセルヴィーニャに渡した。
炉に新しい薪をくべると、ぱちっと音を立てて火の粉が上がった。煙は梁のあいだの暗がりへのぼっていく。
秋には倉と綱場の丸太を二百本近く崖から下ろす。倉にはティウレラの伐った木もある。そのあいだ、誰かが証文を書かなければならない。この家で字が書けるのは、ウェレラさんとセルヴィーニャと僕だけだ。
刷った証文の束も一緒に渡した。枠と括りが刷ってある。空いたところを埋めればいい。
セルヴィーニャは束を胸に抱えて、一枚目を炉の明かりにかざした。括りを指でなぞった。
「kráilim.」
セルヴィーニャの指は、子どもたちに字を教えるときの指だった。
これなら大丈夫だ。
ヒルヴァンは何も言わずに、僕の毛皮の上着のほころびを太い針で縫い直していた。針が皮を抜けるたびに、ぷつ、と小さな音がする。ウェレルは自分の数え棒の、輪の刻み目を親指でなぞっていた。オラウレラが日付を書いた、あの輪だ。
僕は自分の刻み目の束を、荷の袋のいちばん底に入れた。九百三十を少し超えている。都へ行っても毎晩一つずつ増えていく。
◆
朝、石の原に霜が白く降りていた。
踏むと、しゃりっと鳴った。吐く息が白い。屋根の板の縁にも霜がついて、朝日の当たったところから黒く濡れはじめていた。
戸口の前でウェレラさんが僕の前に立った。杖を戸口の脇に立てかけて、両手を空けていた。
去年の秋、最初の下ろしの日に、倉の老人が崖の縁で歌った節がある。軽く下りよ、軽く昇れ。下りる丸太に向けた、上の句と下の句。
ウェレラさんは下の句だけを言った。
「aurénde fláinin.」
崖の下へ下りていく者を送るときは、dulénde。上へ都へ向かう者には、こちらなのだろう。
ウェレラさんは腰の小袋から塩をつまんで、僕の指先と手のひらにつけた。落ちてきて二日目、井戸端でされたのと同じだった。
塩はひんやりしていた。意味はいまだに知らない。でも今は知らなくてもいい気がした。
僕は手のひらを握った。
◆
町の北の外れの、北へ続く道の口で、オラウレラが待っていた。国交省の役人が一人、荷を背負った運び人が二人。
道は刈り跡の残る畑のあいだを、なだらかに上っていく。その先は低い丘の陰に隠れて見えない。
オラウレラは僕を見て、何も言わずに歩きだした。背中の荷は小さかった。
僕は一度だけ振り返った。
霜が日に溶けて、石の原が濡れて光っていた。崖の縁の綱場の腕木が、朝の光の中に黒く立っていた。その手前にドルヴァルの炉の煙が一筋、まっすぐ空へ昇っていた。
落ちてきたのは崖の途中の岩棚だった。そこから、綱で引き上げられた。
今度は自分の足で上っていく。
――第五部 紙の盤 了
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